「ひどいことをしたからと言って、その人がひどい人とは限らない」
海外ドラマである人物が言った言葉だ。“良い人“の定義はすごく難しいと思う。でも世の中には「あの人って良い人(いい子)だよね〜」と言われる人が一定数いる。私の中の区分けがある。“良い人“は「正直あまりよく知らないけど、何かと優しくて黒い部分を誰にも見せない人畜無害な人」で、“いい奴(いい子)“は「よく知ってて、そう言い切れるほど自分とその人の間に何かしらのエピソードがある人」だ。
進撃の巨人を読んでいて心に留まった言葉が、アルミンの言ったこの言葉だ。

"良い人か…それは…その言い方は僕はあまり好きじゃないんだ。だってそれって…
自分にとって都合の良い人をそう呼んでいるだけのような気がるすから。
すべての人に都合の良い人なんていないと思う。
誰かの役に立っても他の誰かにとっては悪い人になっているかもしれないし…" 


アルミン、そうだよ、その通りと最初に読んだときに思ったのを覚えている。 冒頭の言葉にも言えることで、要はその人の捉え方、見方次第でその人が“良い人“か“悪い人“かが決まる。簡単に例えれば、自分に大好きな男友達がいて、その人が浮気をしたとする。その男友達の彼女にとって彼は“悪い人“だが、私にとっては変わらず“良い奴“だ。傷つけられた当事者、もしくは大事な人を傷付けた人でない限り、その人が自分にとって“悪い人“になることはほぼない。「誰にでも過ちはあるよ」などと慰めたりする。正義も正論も全てみる角度によって変わる。こういうことを考える時いつも人間って、人の心理って面白いなと思う。正義も正論もあってないようなもの、正解もないと思うとなんだか安心する。ある人をものすごく嫌いになったとしても、この人を愛する家族がいて、慕う友人や恋人がいるんだと思うと不思議な感覚に陥る。ある意味、憎しみの心が少し和らぐ。誰にでも“良い人“でいることは容易ではないし、それは時に“誰にとっても気付けばどうでも良い人“になり得る。だから大事な人にとって“良い人“であり続け、愛されていればいいのだと思える。“嫌われる勇気“みたいな名前の本があったが、それよりも“大事な人に嫌われない努力“の方が自分が磨かれる気がする。私は大好きな人たちに“いい奴“と思われる生き方をしたい。