結婚とは。そもそも幸せとは。友人とそんな談義をよくする。その問いに答えなどないことをわかっていながら、どうしても私たちは数時間かけて答えを出そうと話し合う。最近では友人の大半が既婚者になってきた。私も経験があるにはあるが芸能人ばりのスピード離婚をし、今となっては結婚という制度はリスクでしかないと思っている。最近会った既婚者の友人2人は口を揃えて「結婚はもはや友達に勧めない」と断言した。“結婚は女の幸せ”というのはもはや古い考えという時代になりつつあるものの、まだまだ世間は独身に辛辣だ。だが一緒にいて楽しいと、この人を愛していると、そう思えないパートナーと“結婚とはそういうもだ“と我慢して一緒にいる意味はいったいなんなのだろう。私は年齢で結婚を焦ることはなかったが結婚をするということはどこか当たり前のことだと思っていた。その理由は自分の家族を、両親を見てきたからだと思う。うちの家族は色々あるが愛情に溢れている。だから私も当然そのような家族を作るものだと思って生きてきた。しかしながら、自分が持っている家族像とは異なる家族像を持つ人と一緒になると、待つのは不幸な結末だ。それはあくまで自分と私の周りの既婚者たちを見た少ない統計ではある。家族のあり方は様々だし、幸せそうに見えても辛い時期を経験している家族もいる。だが、例えば離婚に至った私と元夫のケースではもっと根本的などうしようもない違いがあった。彼は悪くないのかもしれない。どこからその「負の連鎖」(私にはそう思える)が始まったのか知るよしもないが、今となっては私個人としてはその連鎖を断ち切れたのは不幸中の幸いだと思っている。先ほどの2人の友人のうち1人には子供がいる。もう1人はまだいない。2人とも「離婚」の2文字はいつも頭にあるという。色々な事情からそこに踏み切らないのはわかる。私自信も離婚を決める前、自分の両親のことを考え、いい時も悪い時もあってそれを乗り越えたから今の2人があるという思いがあり、最初は苦しみの先にあるのが必ずしも不幸だとは思えなかった。なんとか乗り越えられないかと試行錯誤した。ある事実を知ったことで最後は一点の迷いも無く離婚に踏み切ることができたのだが、報われる保証のない未来の幸せのために苦しんだり傷つく必要はなかったのだと思う。夫婦で乗り越えるべき苦しみの種類には色々あると思うが、私たちの場合はおそらくそのどれにも当てはまっていなかった。苦しみや困難は、2人で一緒に乗り越えるから絆が深まるのだ。どちらか一方がなんとかしようと奮闘し、苦しみに耐え我慢した先に、夫婦や家族の幸せが待っているとは到底思えない。離婚は結婚より大変だとよく言うしそれは事実だろう。世間体だってある。だから多くの夫婦がごまかしながら離婚しない選択肢をなるべく選ぼうとする。私の友人たちは本当にみんな魅力的な女性だ。外見も中身も。だから心から幸せそうではない彼女たちを見ていると歯痒くなる。もっと大事にされるべき、愛されるべき女性たちなのに。母としての人生は私も経験したいし、母として子供のことを第一に考えるのは自分がそうされてきた彼女たちはもちろんそうするし、そこも素敵なところだ。離婚が子供に与える影響は計り知れない。悲しいかな両親が離婚していると自身も離婚する人が多いという統計が出ているという。だけど親の幸せを願わない子供もいない。一緒にいることで幸せでいられないのなら離れて幸せでいる方がいいのかもしれない。だが別れた後も子供に相手の悪口を言い続ける親もいるだろう。それは別れても尚幸せではないということでそれが子供にとっても悪影響なことは心理学者や精神科医でなくともわかる。子供にとって大事なのは両親が幸せでいることではないだろうか。少なくとも私はそう思う。自分のために不幸な結婚生活を親に続けて欲しいとは思わない。家族みんなが幸せであるということの形は決して1つではない。

"結婚前には両目を大きく見開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ"  −トーマス・フラー− 

この言葉、最近のドロドロ系のドラマでも言われていたが、片目を閉じた状態やなんなら両目を閉じた、恋は盲目状態で相手を見て結婚した場合、 結局のところ結婚してから両目でしっかり見なくてはいけなくなる。だから私は、最初から最後まで両目で見る恋愛・結婚をしたい。ごまかしや嘘はもう懲り懲りだ。