私はコンサバティブではない。仕事において言えば、安定した職につきたいという気持ちは一切ない。いい歳なので少しは贅沢ができる程度の収入は確保しようと考えて動いてはいる。社会人になってからずっと何が自分に一番向いている仕事なのかを探求してきた。これかもと思ったものはすぐに試してみる行動力には自負がある。両親は時代的な背景もあるかもしれないが、THEコンサバティブだ。若くてまだ色々なことに無知だった頃は、両親のように冒険しない人生は嫌だなどと言っていた。しかし私や兄が行きたい学校にいくことができたり、色々なことに挑戦できる選択肢を与えられてきたことがいかに恵まれていたか、自分が収入を得るようになって知った。保守的なことは何もつまらない人生を送っているということではない。母はいう。「私は保守派であることに疑問も抱かないし、保守派だという自覚すらないかも。何かを作り出したいとか人の心を動かしたいとかそういう考えはないに等しい。だけど世界中のみんながクリエイティブだったらこの世界は成り立たないでしょう?地味でつまらないと思われる仕事に疑問をもたずに取り組んでる保守派も必要なのよ。でもそんな私たちの癒しや楽しみはクリエイティブな人たちが与えてくれる。どちらも大事な仕事よね。」と。両親は、特に母は、新卒で入社した会社を2年で辞めたり、突然海外に1年行くと言ったり、映像翻訳を勉強するために来月から学校に通うことにしたと言ったりする私の生き方に対して反対することはほぼない。私が“何か“を探し続けることを見守ってくれている。だが友人や知人の中にはこの私の生き方を呆れた目で見る人もいる。留学やワーキングホリデーで海外に行くような人は地に足がついていないとよく言われる。その通りに思える人も確かにいるかもしれないが、私は地に足をつけなくてはいけないという考えこそコンサバティブだと思うし、いつも心底「It's not your business」と思う。人の人生にとやかく言えるほどその人の生き方は参考にすべき素晴らしいものなのかと問いたい。今年から数年ぶりに私は正社員としてある会社に入社したわけだが、既に3年後を目安に別のあることに挑戦できるかどうかを考えている。そのことをある友人に伝えたところ、1人のTHEコンサバティブな友人は少し呆れたように「せめて次の仕事決まるまでやめないでね。せっかくの正社員なんだから。」と言った。彼女の考えもわからなくはない。まず私のキャリアや年齢、更にこのコロナ騒動で今後どうなるかわからない就職の市場だ。なりたくても正社員になれない人はおそらくたくさんいる。だが私の人生、少なくとも今まで金銭的に誰かに迷惑をかけたことはないし、仕事をしていない期間もほとんどない。たっぷりではないがしっかりとした収入を得ながらやりたいことに挑戦してきた。私はこの友人のようなコンサバティブな人の意見が苦手だ。彼らの意見は自分たちが正しいという前提があるようと感じる。その道が正しいと信じたいという願望も含まれている気はするが…。私の両親やその友人のように同じ場所でキャリアを積み信頼を築き上げることも、自分にはできていないことだし、純粋にそれをしている人たちへの尊敬はある。でもそれが正しい道だとは思わないし、ただ一つの生き方であるだけだ。ずっと定職につかずやりたい事が見つかる度にそれに合わせて動く私の生き方が、世間の大多数からどう見られるかはある程度わかる。履歴書の職歴欄がいっぱいになるほどの私の経歴は日本社会ではマイナスに捉えられる可能性のほうが高い。だが今の会社の面接では「行動力があるんだね。」と言ってもらえた(この言葉で入社への迷いが全くなくなった)。友人の後ろ向きなコメントは、正直かなりの“余計なお世話“だ。私だって本音では「じゃあ、つまらないと文句を言いながら、生き生きと働いているように見えないあなたがそこに留まっているのは正解なの?」と言いたいところだが、言わない。仕事に何を求めるかは人それぞれなことを理解しているからだ。私は自分に最近目標ができたことをワクワクした気持ちで伝えたのに、友人はわかりやすく上から目線で私を諭した。まるでそろそろ大人になれとでもいうように。その友人には全く悪気はない。本人は私を案じて言っているつもりだろう。それがわかるだけにコンサバティブな人たちは自分たちが正しいと思う慢心、そう思いたい自衛心に気付くべきだと切に言いたい。自分の生き方が正しいんだと信じたい気持ちはわかるが、他人を否定することで自身を肯定するのは間違っている。生き方を誰かに諭せるのは、この世界でほんの一握りの何かを成し遂げた偉人だけだと私は思う。 

"人生において恐れるものは何もない。あるのは理解されるべきものだけだ。"
−マリー・キュリー−


理解し合えることが、認め合えることが、人生には、人間には、必要で大事なことだ。