「子供の教育がうまくいったかどうかは、その孫の代で決まるんだよ。」

こういっていたのは、教育者だった実父。

そうか、自分の子供の教育のツケは、うちの娘どもの子供の代に現れるんだということか。

「もしお前の娘たちが将来海外留学したいと言い出した時、それを止めるなよ。行きたいところへ行かせてやれよ。」と言われていた。案の定というか、当然の成り行きというべきか、うちの子たちは帰国子女となった。長女も次女も、スペインのビルバオにあるAmericaan School of Bilbaoから再赴任先のウイーンでVienna International Schoolで過ごし、長女はInternational BaccalaureaのDiplomaを取得、英国のReading Universityへ進学、帰国後上智大大学院で、地球環境学科で更に勉強やっていた。次女は同じくVienna International Schoolの9年生になる夏休みに無理くり帰国させられ、ICU高校から慶応義塾のSFCに進学、ドイツ語、スペイン語が出来たので、大学3年次に塾内交換留学生に合格し、ドイツのBonn Universityに一年留学し、社会学を勉強して帰国した。

 

我々夫婦は、今まで子供がこれやりたい、ということを否定したことがなかった。やりたいことを小さい時から見つけ、各々自分の好きなことを集中してやっていた。長女はエレクトーンからピアノ、次女はバレエ。長女はウイーンでも個人レッスン受けてリサイタルを何回も実施、この子のピアノは聞いていると心が動く。ウイーンのアパートが広かったので、グランドピアノを購入してそれでレッスンを受けていた。次女は幼稚園の時からずっとクラシックバレエをやっていて、これはウイーンで花開いた。Dance Artというバレエスクールへ週4日通い、15歳で、「舞台芸術家になるための一次選考」に合格したものの、帰国辞令と同時に無理くり連れて帰られた。高校入学後も、ウイーンのオペラ座付属のバレエ学校にチャレンジするものの、帰国し女子らしい体形に変わってしまったことで、バレエ学校の選考には漏れてしまった。これが彼女の初めての挫折経験。あのままウイーンに残っていたら、オペラ座付属バレエ学校に入れたかも・・・、という愚痴は一切言わず、「あたしこれからICUの吹奏楽部で部長になって、大学受験をガチでやる。」といいだした。兎に角この二人、見ていると小さい時から切り替えは非常に速い。集中力が半端ない。

「お前の所の娘二人は、あれは面白い子たちだ。思いっきり才能を伸ばしてやれ。」という、父のアドバイスに基づき、好きなことを好きなだけ、好きなところでやらせてみた。

 

最近次女の娘が1歳超えてきた。イタリアの女医だったマリア モンテッソーリさんが実践して世界的に有名になった幼児教育の中身を見て、こりゃうちの風土に合うなと思い、今これを次女に進めている。feeはものすごく高いが、これぐらいはジジが出してあげるということでもいいから、とにかく行かせてやらせてみろやと。モノになったら大化けするよ。

 

僕は小さい時からアメリカ人の女性の先生に、ずっと英会話を習っていた。遊びなんだけど、それを通じてアメリカの文化や風習を吸収していたという訳。クリスマスはもちろん、サンクスギビングやハロウインも既に小学校から知っていた。歌を通じて発音も自然に身についてた。”耳”が出来ていた。外国・異文化=楽しい、の等号が成り立っていた。所謂進学塾へは行ったことなかった。中学校に入って、いきなり全国模試で英語だけベスト10入り。学校でやっている授業がつまらなくて、同志社大学の先生に個人的に英語を習ってたくさんの表現を習った。その後語学に関する興味は持続し、大学卒業後、社会人になり、社長命令で特別に米国本土の大学院へ家族を引き連れ、行かせてもらった。その後海外でも仕事できた。お蔭様で英語やスペイン語もマスターできた。要するに知らず知らず、左脳の発達が著しかったお蔭だ。

うちの風土は、ちょっとバター臭い。今後孫娘をどう育てるか、ジジの責任でもある。