前回の記事の続きです。
この記事は、映画『ライオン少年』のネタバレを含みますのでご注意くださいね。
この映画の主人公である阿娟(アチェン)は、貧しい少年です。
体も貧弱で、獅子舞に向いているとはいいがたいです。
そんな阿娟がひたむきに獅子舞に向き合う姿を見て、仲間たちや師匠の生き方も大きく変化していきます。
人生に対する緩やかな諦めの中で、怠惰に生きていた仲間たちは、目標に向かって友と心を一つにする喜びを知り、
店の客や妻に罵倒されながら、うつむき加減にぼんやりと生きていた師匠は大好きな獅子舞を子どもたちに教える喜びを知ります。
生活のために夫に獅子舞をやめさせた師匠の奥さんも、かつてないほど生き生きとして幸せそうな師匠の姿を見て、自分の夫に対する接し方を省みることになります。
阿娟からお年玉をカツアゲして、阿娟が獅子舞を始めるきっかけを作ったライバルチームの青年も、阿娟が悲しみを抱えながら出稼ぎに向かう様子を見て、複雑な顔をしていました。
その後、青年は阿娟が足を痛めていることに気付いた際、阿娟の代役を務めることを申し出たり、阿娟が登ろうとしている塔の支柱が外れた時には、すぐに池に飛び込んで支柱を立て直そうとしたりしていたので、彼も彼なりにさまざまなことを考えたのでしょう。
阿娟と関わることを通じて、物語中の多くの人々の生きる姿勢が変化していったのです。
他人を変えることはできない。
できるのは自分を変えることだけである。
という言葉があります。
ですが私は、自分自身を変えることもとても難しいものだと思います。
むしろ自分も他人も『変える』というよりは、何かのきっかけがあって自然と『変わっていく』ものなのではないでしょうか?
そして私は、そういう人々がより良い方向に変わっていく『きっかけを与える』ことこそが、神仏の起こす『奇跡』なのだと思います。
阿娟が出稼ぎに出た後、師匠や仲間たちが必死にお金をかき集めて決勝戦に出場することを決めたのは、
「テレビで生中継される獅子舞大会を阿娟が見てくれるかも知れない」
という、ほんのわずかな可能性を信じてのことでした。
少しでも阿娟の力になりたい。
そう考えた彼らは、かき集めたお金の一部を阿娟の家族に手渡し、遠慮して断られる前に脱兎の如く走り去りました。
師匠や仲間たちを取り巻く状況は何一つ変わっていないのだけれど、彼らの意識はそのように大きく変化していったのです。
私は自分の損得のためではなく誰かの幸せを願って行動することの喜びを知った人と、知らないままの人の人生の満足度はまったく異なると思います。
阿娟の父親が意識を取り戻すという『奇跡』が(おそらくは)起こらなかったように、仲間たちや師匠も急に裕福になったりすることはないでしょう。
これまでと同じように、日々は過ぎて行くのでしょう。
ですが、誰かのために行動する喜びを知った彼らは、人生を終えるときに
「ああ、とても大変だったけれど、よい人生だったな。」
と満足できるような気がするのです。
過酷な人生を生きた阿娟や彼の家族は、もしかしたら人生の終わりにも『良い人生だった』とは思えないかも知れません。
けれどもあちらの世界へ帰ってから、自分がどれだけ多くの人々の心に影響を与えていたかに気付いた時に、やはり
「苦しみばかりの人生だと思っていたけれど、自分の人生にはこんな素晴らしい面もあったんだな。この人生を生きて良かったな。」
と思えるような気がするのです。
ただそのようなことを言えるのは、私がこの物語の登場人物ではなく、映画の観客として第三者の立場で見ているからにすぎません。
自分が苦しみの中でもがいている時、あるいは自分の周囲の人が苦しんでいるのを間近で見ている時に、そんなふうに客観的に物事を見ることはとても難しいです。
だからこそ、客観的な立場にいる神仏の視点が重要なのだと思います。
神仏が何か特別な『奇跡(物語の中で阿娟が願ったような奇跡)』を起こして人を助けてくれることももちろんあるのでしょうが、それはそう頻繁に起こることでもないと思います。
ただそれは『神仏が何もしてくれない』からではなく、『神仏なんて本当は存在しない』からでもなく、
基本的に神仏というのは、私たちがより良く生きるための気付きという『奇跡』を与え、そしてこの世界の当事者であるがゆえに客観的に物事を見られない私たちに対して客観的な立場からアドバイスを送る存在だからなのだろう、と私は理解しています。
そのように考えた時、この獅子舞の物語はたくさんの奇跡に溢れた物語だったということができますし、
それと同様に私たちの生きるこの世界もまた、奇跡に溢れた世界だということに気付くことができるように思います。