久しぶりに思うことをつらつらと書いてみようかという気になったので。
私は、「普通」だと思う。
自他ともに認める「普遍的」「一般人」「大衆」だと思う。
私は昔からはみ出すことが怖かった。
自分では正解と思ってしている行動が他人にとっては不快だったり腹が立つ原因だったりする。
人と違うことがいけないことだと思って生きていた。
空気を読んで、顔色を窺って、自分は間違っていないか、踏み外していないか、否、周囲の人間から見て踏み外しているヤツだと思われないかどうか、そんなことばかり考えて20数年間生きてきてしまった。
そうしてやっと普通の皮をかぶって生活ができるようになったある日気づく。
「普通」って何?
私が教わってきた普通、見てきた普通、それはあくまで小さい世界での小さい共通認識であった。
そこから一歩踏み出せばそこには私が善としてきた普通の姿は普通としては扱われていなかった。
目立たぬように、騒ぎ立てず、争いを起こさず、まじめに勤めて、それなりに娯楽も楽しんで。
それはそれで、そんなに大きく不満もない生活。
会社でも人間関係で悩むことなく(入社当時はこっぴどくやらかしてやべーヤツが入ってきたと先輩方をおののかせた)、昔から長い付き合いの友人にも囲まれ、地元を離れてからも新天地で仲良くしてくれる友人もできて、普通に生きてこれてよかったなとは思う。
週休2日も有休もそれなりに満喫できていて、スポーツの習慣も作れて、旅行にも定期的に行ける。
おまけにかわいいハムスターの家族も増えて生活に癒しもある。
毎日汗水たらして睡眠時間も削って肌も髪もボロボロになりながら働いていた頃を思い返せば今は体も健康、よく眠れてよく食べられて、肌つやも髪のキューティクルも良好。
一昔前の私から見ればこんな生活は文句なしの生活。
充実しているはず、なのに、なぜだか時々ふと思うのだ。
私はこれでいいのだろうか?
私はこんなもんなんだろうか?
私は没個性な人間なんじゃないだろうか?
あなたって意外と「普通」な人なんだね、と言われた。
そこにはどんな意味が込められているんだろう。
数年前、少しだけ私は「変」な人になりたかった。
それは、自分が出会う人の中で仲良くなりたいと思う人は「変」な人が多かったから。
「変」というのは、変わり者、変態、少数派の意見、他の人がしないことをする、他の人と違うことを言う、いろいろなタイプ人がいたけど、私はその「変」なところにもれなく惹かれた。
大人になってから考え方が変わったのかなと思っていたけど、最近それは違うと気づいた。
振り返ってみれば、昔から変わり者の友達が多かったし好きになる男性も独特な感性を持っている人や変わったことをしている人が多かった。
そんな人たちと一緒にいると、私が思う「普通」に当てはまらない人ばかりと話すことになる。
私は「普通」でいることの必要性をまるで感じなくなっていった。
さて、じゃあ今この瞬間から「変」な人になります!って言ったってそんなことできるわけもなく。
幾年も過ごしてきた私の皮を今更脱ぐことができなくなっていたのだった。
それもそれで、私なのだと思う。
そこにいいも悪いもなくて、ただ、そうなのだと思う。
自分もどこか「変」でありたいと思うこの気持ちも、また私なのだ。
それでいいのだ。ばかぼんなのだ。
生きている限りは何かしらの洗脳を受けているはずで、親からの洗脳、学校教育での洗脳、集団生活の中での洗脳、そうして与えられた情報をもとに私という人格ができあがっていく。
つまり、これまで生きてきてインプットしてきた情報の積み重ねが今の自分なんだよな。
だから、「普通」とはどんな人なのかを取捨選択してインプットしてきた結果が今の私だと思う。
そして徐々に自動化された脳の情報収集システムは、私が普通でいるための情報を勝手にインプットし、私が普通でいるための行動を選択する。
無意識化で普通であることを選択しているのだ。
結局、「変」になりそこねた「変」になりたかった「変」な人に囲まれた「変」なことが好きな「普通」な私がここにいる。笑
とびぬけたことをしたいのなら、頭一つ抜けたいと思うなら、何かを残したいと思うのなら、私はまずインプットする情報を変えていかんにゃならんのだろう。
変になりたいのなら、私には到底思いつけない変な考え方を知ることが必要なんだ。
一度きりの人生、思いっきり変になったっていいんだよな。