ジプシーナースの創世記

ジプシーナースの創世記

ジプシーナースmaryです。わかる・感じる看護、医療、ヒトの心と体のことについてのブログです。

2016.8 更新

ブログを別サイトで始めました。

Be Jellicle Cats

看護×疫学×国際×ビジネスがテーマです。
Amebaでブログを始めよう!

冬はどこの病院もいそがしい。

インフルエンザは猛威をふるうし、3月ともなれば退職者の有休消化でスタッフが激減する。

3月、4月に希望休暇を、しかもながく取ろうものなら、

裏切者的なレッテルを貼られかねない。

 

そんなときに決まって、看護師長やら看護主任やらが言う決まり文句がある。

 

「忙しいからわかって」

「忙しいからできない」

 

管理職につく人間が、忙しいからを理由に

現状を肯定してしまったら

何も変わらない。

 

現状に満足してるのかとさえ勘違いを生むだろう。

 

忙しいを理由にするのは怠惰だ。

 

忙しいからこそ、効率アップを図って

スタッフのモチベーションが落ちないための方策を考えて、

スタッフを大事にしないとチームは崩壊する。

 

「わかっているんだけど」

の次の言葉は、忙しいからできない、とか

どうしていいかわからない。

 

現場のスタック、部下たちはもっとそう思ってる。

 

できない理由を作ったり言い訳にするのは、一スタッフならいいだろう。

そんなの管理者がやることじゃない。

 

どうしたらできるのか、

なぜ現状がこうなのか

どうしたら脱却するのか

考えてスタッフが行動に移せる環境を整えるのが

上司の役目だろうと思う。

 

 

毎日のブログ更新って、自己満足だと思っていたけど、

それを待っている人もいるんだなぁと感じた今日この頃。

 

自分にとって価値のないことでも

他人には価値があることがあるって、

知っていたけど、改めて知る。

 

 

そんな私の近況報告としては、

研究者としてあるべく博士課程への継続進学はいったん中止して、

現場へ戻った私は、

あっという間に、いろんなお役目をいただき、

来年博士いきます、とは言えない状況になってしまいました(笑)

 

 

 

続きはこちらからどうぞ(ΦωΦ)

 

 

 

 

大変大変ご無沙汰しております。

あっっっという間に、8月が終わろうとしております…。



4月から、なにをしていたかと掻い摘みますと、

卒論に追われる

ドラフト書きあがり、雑誌投稿を進める

再解析したら、ちょっと結果が変わってしまい、トラブル発生

データ再収集できず、卒業危ぶまれる

奇跡の別データ入手

イチから解析

熊本地震で医療派遣

解析できないまま、医療派遣を継続

海外医療派遣になる

海の上で、何もできない

帰国して風邪をひく



いま、ここです。
そんな中で、ずっと温めていた新しいブログを立ち上げました。
アメブロさんも好きなのですが、
アメブロやってないとコメントできないとか制約があるので、
もっとオープンなほうがいいなぁと。

あとは備忘録兼ねて、恥ずかしながら残せるものがいいかなと思い、
いままでとなんら変わりないですが、
ブログ引っ越します。

こちらから引き続きお読みいただく方には、
いままでと異なる話し方に聞こえるかもしれませんが、
本人は変わっておりません(笑)

もう少し、詳しいプロフィールをのせてみたり、
メルマガ初めて発行してみたりしてます。

お時間ありましたらお立ち寄りくださいませ。

現在通ってる東大のイベント(医療、看護、経済など)や
せっかくなので、東大ツアーなんかもやろうかと思ったりしております。
ただ、希望者がいれば、ですが。

では、引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

Mary



4月14日に熊本地震が発生し、その後も続く一連の地震によって、
犠牲になられた方々に謹んで哀悼の意を表しますとともに、
被災された全ての方に心からのお見舞いを申し上げます。
一日も早い復旧を果たされることをお祈りすると同時に、
被災された皆様が平穏な日々を取り戻せるようお祈り申し上げます。


5年前の東日本大震災での経験を乗り越え、
医療も行政も、一歩前に進んで、防ぎえる災害死を限りなくゼロへ、
多くの人たちが関わっています。

SNSの普及は、よくも悪くも多方面に影響を及ぼし、
FBでも熊本地震関連のグループがいくつか立ち上げられ、
これもよくも悪くも活発な意見交換がされています。


医療の現場の話は、落ち着いたときにしたほうが良いと思うので、またの機会として、
災害時における情報のやり取りについて、個人的見解を一言。


東日本での経験を踏まえて、電話連絡を控えて、
データ通信、メールだとか、ツイッターやフェイスブックなどのSNSであるとか、
音声以外の連絡方法を用いて安否確認を取られたり、
物資の情報や、ガソリンスタンド、移動入浴車の開設場所だったり、
給水車のスケジュールだったり、交通情報、などなど、
もちろんラジオやテレビだけでは得られない、
地域性に属した情報を得やすくなりました。

いままでは口伝えやウワサでしか伝聞されなかった情報が、
自分から発信することができ、
また知らない人たちが見聞きした情報を、動かずにその場で得ることができる。

この情報があるから、きめ細やかな対応ができることもあるでしょう。


その反面、その情報源はどこまで確かで、信頼性があるのか、
誰が発信してるのか、何が根拠なのか、
災害時において、パニックに陥っていると正しい判断ができなくなります。

情報の海に溺れて、どの情報が本当に必要な情報で、
どれがいまは不要な情報なのか、
判断ができなくなる。

判断ができず、先がみえないから、さらに恐怖に陥ることもありえます。

携帯電話は便利ですが、いまの熊本の状態だと、
震度6以上の地震が、14日に2回、15日に1回、16日に4回。
そのたびごとに、避難所にいる数百人の携帯電話の緊急地震警報が鳴り響くのです。

怖くなって、身をすくめて、地震が止むのを待って、
知らないと怖いから、ネットをチェックする。
そうすると、たった数分の間に、数百を超えるツイッターが更新されていて、
自分が見たかった情報にたどり着く前に、
そのツイッターたちを見て、どんどん怖くなっていく。

そうですよね、そういうときのつぶやきとか言いたいことって、
いまの心情そのままであることが多いので、
怖さとか、つらさとか、そういう感情である場合が多いと思います。
それは人間ですから当たり前のことです。


そしてそれを見た人は、受け取ってしまって、
つらさを共感してしまい、その情報を自分の体験として受け止めて、
さらに怖さの深みにはまってしまいます。

心と体はつながっています。

地震を耐えて、体も十分休まらないときに、
情報の海に溺れてしまうと、さらに心身ともに疲弊してしまいます。

時には、携帯をオフにして、
その恐怖の感情は正しい反応です。
でも心を情報から、一瞬でも切り離して、心を休めてほしいと思います。

いま、あなたにできることはあなたは精一杯されていると思いますから、
それ以上自分を心配させないで上げてほしいと思います。


知らないことで生まれる恐怖と
知ることで増える恐怖。

どちらも怖いことです。

実際にどちからはわかりません。

でも、24時間携帯を手放せない、という状態であるならば、
もしかして知りすぎて、情報が多すぎて、
心が疲れているサインかもしれません。


携帯でつながっている遠くの知人も大切ですが、
周りで共に今の苦難を支え合っている人たちと、
顔の見える会話をしてみることも
ひとつかもしれません。

普段の生活ではないからこそ、普段と違うストレスに晒されています。


がんばりすぎる必要はないのです。
助けを求めてもいいのです。

ストレスの耐性は人それぞれですから、
みんなが我慢してるのに、私だけ、とか言わなくてもいいのです。

そう思っている人が、他にもいるかもしれません。
だから、隣の人と、会話をして
想いを吐露することで、気持ちが落ち着くこともあるでしょう。

私の友人のように、
「1日何十回と地震くるから、もう慣れたよ。全然平気」
と普段通りに生活できる人が
多くないのは当たり前です。


女性だから、高齢者だから、こどもだから、
肩身の狭い思いをされてるかたもいらっしゃるでしょう。

同じ思いをされている方がいます。
そして近くにいらっしゃいます。

同じ思いをされているかたが集まれば、
新しいアイデアや対応ができることもあります。
その場でなら、たくさんの情報がうまくまとまって、いい方向へ導けるかもしれません。

ひとりで悩まないでいてほしいと思います。
心を蝕んでいくのは、ひとりで悩み抜くことだと思います。

どうか言葉に出して、心を休めて下さいね。


1週間及ぶ海外研修から帰国しました。


マラリア地帯だったので、蚊には十分すぎるほど注意して、

虫よけスプレー、虫よけのパーカー、
長袖長ズボン、マラリア予防薬まで内服して、
万全を期して渡航しましたが、

蚊には刺されませんでしたが、

なにか違う昆虫的なものに刺されて、
手や足のあっちこっちに、赤いポツポツができてます…。
かゆくもないんですが、なんだろう…。



しばらく、携帯の電波の届かない島にいっておりまして、
そこでは鶏も、乳牛も、犬も(野良でしょうけど)、ネコも
放し飼い。
でも人間を襲わない。


すべての生き物が、人間と共存してました。



聞こえる音は、
昆虫の羽ばたく音と、犬の大喧嘩の鳴き声、
牛の声、大いなるメコン川のせせらぎ、
薄い屋根をひっぺがすかのような風の音。

ときどき聞こえる住民の人の笑い声、
結婚のお祝いをしているお宅から大音量の音楽、
氷を割る音。



ここにはどこにも
トラックの轟音も、救急車のサイレンも、
携帯電話の着信音も、冷蔵庫から聞こえる低い持続的な音も、
テレビも、ない。



人工的な音のしない、
ただゆっくりと時間が流れる場所が、

同じ地球上にあって、


いまこうしてパソコンにむきあって、
たまったメールと仕事をしているけど、

そんなこともなくて、ただ川にジャンプインして、
水かけあって笑いあって、
大きな太陽の日没をみて、
家族でおしゃべりをする。


そんな、たぶん日本を含めて、機械だらけの世界では
もう忘れ去られた時間のなかで、
人が人として、生きる場所だった。


冷蔵庫もないから、氷とクーラーボックスで冷やした飲み物を、
ストローをつけて、くれる。
錆びたのこぎりで、縁側の上で、巨大な氷を均等に割って、
かき氷にして、振る舞ってくれる。

あるものを最大に活用して、
ないものをほしいといわず、
いまそこにある全てで、創り出していく力。

生きる底力みたいなものを感じた。


人として、「普通」の生活って、なんだろう?



書きたいことはたくさんあるんですが、
帰りのフライトで、なぜか途中下車させられ、
テンヤワンヤの帰国に、

刺されたこととは関係ないと思いつつ、
顔面が蕁麻疹で派手に腫れているので、
今日は早々に体を休めて、

後日、ゆっくりと
気がついたことを書きたいと思います。

おやすみなさいませー。
今日も健康相談兼、人生相談。

といっても、お相手の方たちは、
ほぼほぼ私より人生の先輩であって、
そして社会経験なんて、
私の想像の及ばないくらい幅も奥深さもあって、

人生相談なんて、言葉自体おこがましいのだけど、
ご本人たちがそういうので、そういうことにしています。


人生相談といっても、
ビジネスのことは畑違いなので、そういうことじゃなくて、

部下を含む対人関係であったり、
恋愛を含むプライベートなことであったり、
家族のことであったり、

職業柄なのか、なんなのか、
喋りやすい、と思ってもらえることは
ナースとして本望だなぁと思います。


今日はそんな話のなかで、
夢、の話をしていました。


起業されて、10年以上やってこられて、
会社がいくつもあって、
でも不協和音が発生してしまって、
信頼が足元から崩れて、
原点回帰をしたい、というお話から、

「あなたの夢、というか原点ってなんですか」

と聞かれた。



ここ数年言っていることを、お伝えした。



臨床×研究×教育をひとつにすること。
研究と教育を、現場ですること。








私と直接会った人は聞いたことあると思いますが、

私はむかしからナースになりたくて、
きっかけはどこかアフリカのこどもたちを扱ったテレビ番組でした。



人が病気に困っているなら、
医療は人を救える。


医療界に入ろう。

そう思うのに時間はかからず、それになろうと思った。


最初は医者が一番エライと思っていて、
医者になれば医療ができる、と勘違いをして、
目指せ医学部、だったけど、


大学入学のときに
地方の医学部に進学するか、
都市で看護に進むかを選択することになって、

迷わず都市で看護を選んだ。


「場所」が大切だと思ったから。




今思えば、この選択は最善だった。



国際医療、災害医療に強いと名高い病院へ就職して、
順風満帆な出だし。

といいつつ、当時は大学出の看護師の走りで、
その病院に学士をもった、つまりは
大学卒業した看護師が就職したのは初めてだった。
ため、なにをしても何か言われる日々に、

負けずキライ精神が爆発して(笑)、
先輩をぎゃふんと言わせたくて(笑)、
がむしゃらに新人期間といわれた3年が過ぎた。


その後、ICLS(蘇生トレーニングコース)や
JPTEC(病院前外傷教育プログラム)に出会って、
こういうシミュレーションのインストラクターになった。


後輩や新人への一方的な押し付け技術論から、
成人教育とはなにか、
人とコミュニケーションをとるってことはなにか、

を本当に考えさせられ、実践させられた。


相手は医療者であり、その前に、人なんだ。
教えてもらう人と教えてもらう人、
なんてカテゴリーができていること自体、失礼だった。



初めて病院外で、「医療」という共通言語を通して関わることで、

いま、医療教育と言われているものは、
システムややり方、技術を伝授するだけであって、
教育ではないんだな、ってことに気が付いたのもこのあたり。


そして、
某国家暴力装置にも衛生として入隊し、
国際医療チームにも所属をし、

いろんな場所で、いろんな医療者に会って、
いろんなシステムに関わることで、
医療を多角度的にみることができるようになった。


当時は、こうやって病院外のことを堂々とやる風習は、
特にナースにとっては逆風になりがちで、
あまり理解を得られなかったけど、

個人に理解を示してくれる組織もゼロではなかったので、
そういう組織へ移動するだけだった。

だって、病院を変わっても、私がナースであることは、変わりないから。
箱が違ったって、やることは同じ。



人の命を医師が預かり、
その人の人生において、
病院という場所で、ほんの少しの時間、
でも一番つらいときに直接密接にかかわり、

一瞬の出会いなのに、一生涯の記憶となる、
そんな不思議な場所で、


毎日救急車で運ばれてくる人たちの治療を見守りながら、
どうして、こんなにも救急搬送が多いんだろうって、疑問が生まれた。



災害現場で医療を行いながら、
この急性期は私たちが見てるけど、
そのあと、各国、各地方の医療団体が引き揚げたら、
この災害地の健康状態はだれが継続して、見守るんだろうか。


一過性の治療に意味って、あるんだろうか。


そして、
上流はどうなってるのか、知りたくなった。


今までは一対一の医療の現場で、ミクロ的に人と相対してきたけど、
マクロ的に、医療を俯瞰しないと、
現場で目の前のことだけやっていても、
らちが明かないんじゃないかと思った。



これは、公衆衛生的には、
アップストリーム ダウンストリーム (Youtubeに飛びます)

という有名な話らしいのですが、
これを知ったのは、公衆衛生を学ぼうと大学院に入学してから
(つまり今)の話。


”ふと、流れの速い川の岸に立っていると、
おぼれている人の叫び声が聞こえてきました。


そこで、私は川に飛び込み、
手を差し伸べ、岸にあげて、人工呼吸をしました。


おぼれた人が、息を吹き返すと、
た助けを求める叫び声が聞こえてきました。

仕方なしに、私は川に飛び込み、
彼に手を差し伸べ、岸まであげて、人工呼吸を施しました。

彼が息を吹き返すと、
また助けを求める叫び声が聞こえてきました。



もう選択肢はありません。



私は川に飛び込み、
この繰り返しは、果てしなく続きました。
私は、川に飛び込み、岸にあげて、
人工呼吸を施すだけで、精一杯でした。



分かってください。




私には、上流に分け入って、
どんな地獄が彼らを川に突き落としているのかを
確認する時間なんてなかったんです。”



上流を知らずして、下流での出来事を、
正確に把握することはできない。


上流しか知らないと、下流を見ずして惨状が分からないし、
下流しか知らないと、上流からやってくることに不満しか募らなくなる。


どっちがいいとかそういうことじゃなくて、
ただ自分が今いる場所以外のことも知らないと、
ちゃんと物事を捉えることができない。



そんな現状では、上流にいても下流にいても、
コミュニケーションがとれないから
医療者の目的は、患者さんの生活の質を整えることであって、
お互いいがみ合うことじゃないのにな、と思い、

全部同じフィールドでできたら、
きっとお互いを尊重し合えるんじゃないかな、という思いから、

臨床×研究×教育

がいいなと思います。
とお伝えした。



そしたら、ふっと笑顔で、

「正論だけど、じゃあどうして、
そのキレイな正論が何十年も議論されていて、
なのにまだ統一されてないってことは、なぜなのかな


と問われた。




その通りですよね。

いや、ほんとその通り。



きっと誰もがそう思って、いままでやってこれなかったことなんだろう。



でも、誰かが思って行動しないと、
絶対に変化できないことだから。


私が生きてるうちに全部変わるなんて、
そんなことはまったく思ってないんです。


私が生きているうちに、
その強固な概念に、ヒビひとつ入れることができて、
次世代へつなぐ踏み台になれれば、十分だと思ってるので。



これを達成するには
たぶん業界だけじゃなくて、
政治的な何かとか含めて
いろんなしがらみが絡んで、一筋縄ではいかなくて。


だけど、夢だから、

マーチンルーサーキングジュニアの演説にもあったように、
同じテーブルに座って、すべての人が対等に話し合える場が
いまもまだくすぶっているのと同じように、

夢を語り、小さな一歩を踏み出すことは、
決してだめなことじゃないから。


きれいごとだと思われても、譲れないことは譲れない。

大目標があるから歩いていけるし、なにより今が楽しいと思えるから。


現場での体験が、適当な方法で研究されて、
きちんと体系化されて、教育があって、
それであってやっと医学は医学としてあれるような気がしてます。
医学というより、看護学なのかもしれないけど。



始めに目指した医療は、
それしか知らなかったこともあって西洋医学一辺倒であったけど、

医学の目的って、切ったり貼ったりすることだけがそうじゃなくて、
その人が健康で、その人の人生を健やかに過ごすことを、
医学をもってしてお手伝いすること、


だと思うので、

本人が望む健康状態が保てて、
その人が楽しい人生を送れるのであれば
本望だなって思います。