上杉乳母神社(うえすぎうばじんじゃ)
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上杉乳母神社安産子育守護(上杉鶴若の乳母忠照を祀った乳母堂)
御祭神 上杉鶴若忠照乳母尊霊
鎮座地 群馬県藤岡市西平井82
民家も疎らな地域の道端に社殿があります。
天文二十一年(1552)関東管領「山内上杉憲政」は小田原の北条氏康に攻められ、越後に亡命し平井城は落城しました。
伝説では、異説もありますが、嫡子「龍若丸」は家臣の裏切りにより、北条へ引き渡され落命したといわれています。
境内の改築記念碑
次男「鶴若丸」は乳母の懐に抱かれて逃げましたが、多比良(吉井)方面に落ちる途中、北条方に見つかってしまい、乳母は幼君を守ろうとしましたが、鶴若丸は殺害され、乳母は自害したといわれています。
関東管領平井城周辺の歴史
上杉乳母神社の南東に直線で約800m離れた所に、平井城の氏神である「三嶋神社」があります。
三嶋神社の参道と社殿
三嶋神社の東側の、鮎川の手前には「平井城跡」があります。
室町幕府の成立に際し、足利尊氏は、鎌倉幕府のあった関東を特に重視し、鎌倉府を設置しました。
鎌倉府には鎌倉公方と鎌倉公方を補佐する関東管領が設けられました。
鎌倉府の組織は幕府とほぼ同じで、与えられた権限も大きかったため、やがて将軍に反抗するようになっていきます。
六代将軍「足利義教」の時に、長らく幕府と対抗関係にあった鎌倉公方「足利持氏」との関係が決裂してしまいます。
このとき関東管領であった上杉憲実は、反幕行動を露骨にあらわす足利持氏を常に制したため、公方と関東管領との関係も次第に対立的なものへと変化していきました。
永享十年(1438)足利持氏の反感をより強めてしまった上杉憲実は、鎌倉の山内館にいられなくなり、この年急遽「長尾忠房」が築いた平井城に退去しました。
持氏は平井城に兵を向け、直接的な武力行使に及びました。
これに対して持氏の出兵の報を受けた義教は討伐軍を送り、翌年持氏を滅ぼしました。
この一連の事件は「永享の乱」と呼ばれていて、この永享の乱の舞台となったのが、「平井城」です。
その後、上杉顕定は平井城を強化して本拠地としたため、関東管領府として大いに栄えました。
しかし、天文二十一年(1552)北条氏との戦いに敗れた上杉憲政が、越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃れると急速に勢力を失いました。
現在、城跡には復元土塁が残るだけですが、近くには氏神である「三嶋神社」の他に、憲実の開基した真言宗「仙蔵寺」、顕定の菩提寺の真言宗「常光寺」があります。
関東管領「上杉憲政」は、戦上手とはいえない武将でしたが、家柄は関東を代表する名家です。
関東管領といえば形式的には室町幕府の下部組織ですが、戦国時代には事実上独立した権力機構でした。
憲政の山内上杉家は代々関東管領職に就く習わしでした。
しかし、憲政が就任した時期は戦国の真っ只中で、関東管領とは名ばかりになっていました。
天文二十一年(1552)北条氏康が勢力を伸長していたために身の置き所がなくなった憲政は越後へ落ち延びました。
当時越後を支配していた長尾景虎は、快くこの落日の名門武将を迎え入れました。
後に景虎は憲政から「上杉」の姓と、関東管領職を譲り受けることになり、戦国武将「上杉謙信」が誕生します。
謙信は実に律儀な男で、関東管領職にある自分が関東を支配できていないのはおかしいと考えたのか、毎年冬になると関東へ出馬するようになります。
その際には憲政を同行させました。
謙信の働きで、憲政は一旦は城の奪還にも成功しています。
しかし、憲政の最期は脆く、謙信の死後、天正六年(1578)に起きた上杉家の家督争いの「御館の乱」に巻き込まれ、命を落としました。
享年五十七歳で、墓所は山形県米沢市の曹洞宗「照陽寺」にあります。
(ブログ「お城を歩く」より)
神奈川県小田原市東町に、関東管領上杉憲政の嫡男である「上杉龍若丸」の墓(上杉神社)があり、別伝が伝わっています。
関東管領平井城主、山内上杉憲政の嫡男、龍若丸(十一歳又は十三歳)は、天文二十年(1551)平井城落城前に、北条氏康(三代)の攻撃を止めさせ、所領を安堵するため、降伏の使いとして、従臣六人とともに、小田原に出向いてきました。
北条氏康は、龍若がまだ幼稚ではありましたが、大敵の嫡男のため、家臣の神尾治部右衛門に首を刎ることを命じ、龍若と従臣は一色の松原で磔にかけられました。
龍若を斬殺した神尾治部右衛門は、癪病に罹り、まもなく死亡したといわれ、これを知った小田原町民は龍若に深く同情し、五輪塔を立て祀り、供養をしたといわれています。
(サイト「名右衛門」より)
天文二十一年(1552)上杉憲政が越後に落ち延びるとき、平井城退去に際し、男子達を個々に落ちさせました。
憲政は平井城退去に際し、妻子を置き去りにしたとの説があり、実際に越後に妻子は同行していません。
境内にある供養塔
一説には、嫡子「龍若丸」は家臣と共に上野に潜伏しましたが、龍若丸の乳母の夫、妻鹿田新助に寝返られ、北条氏康の下に引き出され斬られたとも云われています。
次男「鶴若丸」は、その乳母とともに多比良方面に落ちる途中、追手が迫り、橋の下に身を隠しましたが、橋の上から槍で突かれ、乳母共々落命したといいます。
社伝に掲げられた額
またその際乳母は、幼君を守ろうとして奮戦しましたが、鶴若丸は殺害され、乳母は自害したともいわれています。
丁寧に祀られている社殿内
村人たちは、乳母と幼君が捉えられたところを「姥が懐」と呼び、乳母と若君の亡骸を手厚く葬り、祠を建てて祀りました。
この地を姥懐(ウバビトコ)と呼んでいます。
後世、最後まで主君に忠節を尽くした乳母を称えて、
「若君と 共に野末に 散り果てし 乳母の御魂は 尊うとかりけり」
という碑が建てられています。
(ブログ「Tigerdreamの上州まったり紀行」「クタビレ爺イの山日記」より)
※写真は令和元年(2019)三月二十五日に撮影したものです。