大洞赤城神社と小沼神社天龍弁財天 | こにの神社参詣記

こにの神社参詣記

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大洞赤城神社(だいどうあかぎじんじゃ)

☆☆☆☆

延喜式内 名神大社 大洞赤城神社

鎮座地 群馬県前橋市富士見町赤城山4-2

 

御祭神 赤城大明神

正殿 大国主命 磐筒男神 磐筒女神 経津主神 豊城入彦命

相殿 徳川家康公 大山昨神

御饌殿 大宣都比売神 保食神 豊受大神

御酒殿 大物主神 豊受大神

小沼宮(豊受神社) 倉稲魂神 豊受大神

 

境内社御祭神

伊邪那岐命 伊邪那美命 天照皇大神 月読命 素戔嗚尊 火産霊神 波邇夜須比売神 波邇夜須毘古神 大土御祖神 天水分神 國水分神 高龗神 闇龗神 闇御津羽神 猿太毘古神 大山祇神 木花之佐久夜毘売神 市杵嶋比売神 健御名方神 御穂須須美命 速玉神 事解男神 大雷神 久那斗神 誉田別尊 豊木入日子命 豊鍬入比売命 菅原道真公 柿本人麿公 鎌倉権五郎影政公

 

社殿前の狛犬さん

正式名称は赤城神社ですが、他の赤城神社との区別のため「大洞赤城神社」とも呼ばれます。

 

大洞赤城神社は、延喜式内社・上野國二宮赤城神社の論社です。

式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、延喜式に記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される赤城神社の論社として、赤城山頂大沼の畔の「大洞赤城神社」、赤城山中腹の「三夜沢赤城神社」、前橋市二之宮町の「二宮赤城神社」があります。

 

関東地方を中心として全国に約300社ある赤城神社の、本宮と推測されるうちの一社です。

 

由緒

赤城神社は、主祭神に赤城大明神、赤城山と湖の神様をお祀りし、古来人々の守護神として信仰されてきました。

 

その信仰は太古に遡るため創建年代は不詳ですが、第十一代崇神天皇の皇子・豊城入彦命が上野国に移ったとき、赤城神社は既に、神庫岳(現・地蔵岳)の中腹に「赤城大明神」と、沼神の「赤沼大神」として祀られており、社伝では、豊城入彦命が上毛野を支配することになった際に山と沼の霊を奉斎したといわれています。

 

その後、第十九代允恭天皇・第三十一代用明天皇の時代に社殿を創設したと伝わります。

 

大沼の雄大な景色

第五十一代平城天皇の大同元年(806)に、大沼(おの)の南の畔(現在の大洞旧社地)に遷座した記録が残されています。

この年号に因み、この地を大洞と名付けたといわれます。

 

また、「大洞」は「大堂」とも書かれたといい、山頂に堂があったとも伝わり、湖からは古くに祭祀に使われた鏡も発見されています。

 

大同元年(806)には、小沼(この)の畔にも小沼宮(豊受神社)が建てられています。

 

冬の旧社地

夏の旧社地

神仏習合期には、神域が赤城山全体に及ぶほどになり、朝廷より御神位を賜り、承和六年(839)にはじまり、元慶四年(880)には赤城沼神として昇叙し、長元年間(1028~1037)には正一位に叙せられています。

 

旧社地の水際に辨天宮

徳川時代に入ると相殿に東照大権現・徳川家康公が祀られ、将軍家をはじめ諸大名の信仰も厚く、寛永十九年(1642)には三代将軍徳川家光公の命により社殿を再建しています。

 

冬の弁天宮は雪で近づけません。

その後、明治二十年(1887)~四十三年(1910)の間に、小沼畔の「豊受神社」、小鳥ヶ島の「厳島神社」、黒檜山頂の「高於神神社」をはじめ、赤城山内の神社が合祀されました。

 

昭和四十五年(1970)に、凡そ千二百年鎮座した大洞から、小鳥ヶ島の厳島神社の跡地(現在地)に遷宮し現在に至ります。

 

旧社地近くから右手側に見える「小鳥ヶ島」の夏と冬

氷上にはワカサギ釣りをしている人たちが見えます。

 

小鳥ヶ島(現社地)

神橋「啄木鳥橋」を渡ると境内になります。

境内の様子

手水舎

手水龍さん

「御神水」

赤城神社跡地、大洞の林の中に湧き出ている清水は、昔から「御神水」といわれ、朝廷、幕府に献上されていました。

江戸時代、幕府はこの水を守るために、赤城神社境内地周辺には不浄な物の建設を一切認めませんでした。

この手水舎の水は、御神水の湧水を水源とする簡易水道を、この場まで引いたものです。

 

小鳥ヶ島の多宝塔

小鳥ヶ島には、「小鳥ヶ島遺跡」として南北朝時代の経塚遺跡があります。

応安五年(1372)銘の法華経埋納を示す多宝塔下の地中から、銅経筒の残欠と鏡十面が出土しました。

これら出土した鏡は、神仏習合における信仰を表すものとして、宝塔・経筒残欠とともに群馬県の文化財に指定されています。

 

赤城稲荷大神

大洞赤城神社境内入口の神橋「啄木鳥橋」の東側、県道251号線の向い側に小さな鳥居と小さな石祠があります。

石祠の中に、御神体の白狐に乗った荼枳尼天が祀られています。

 

大沼の南端から約1.3km南東に小沼があります。

 

 

小沼神社 天龍弁財天

☆☆

小沼宮(豊受神社)

御祭神 倉稲魂神 豊受大神

 

大沼(おの)と同様、小沼も正確には「この」と読みます。

長七郎山の火山活動でできた火口湖で、大沼の南東、標高1470mの位置にあります。

周囲は1kmほどで、一周30~40分程度の小路があります。

小沼の水底からは、和鏡が発見されています。(池中納鏡遺跡)

 

伊勢崎市の赤堀地区には、赤城山の小沼に結びつく龍女伝説があります。

 

龍女伝説「赤堀道元の娘」

佐波郡赤堀村(伊勢崎市赤堀地区)に、赤堀道元という長者が住んでいました。

道元夫婦には子供がなかったので、赤堀明神に祈ったところ、一人の娘を授かりました。

娘はすくすくと、美しく育ちましたが、普通の子供のように外に出て遊びまわることもなく、一人静かに過ごすことが多い娘でした。

 

縦長の鳥居

 

十六歳になった春の頃からは、毎日、窓辺に出ては、赤城山をじっと見つめて、物思いにふけるようになりました。

四月になると娘は、赤城山へ登りたいと、明けても暮れても言い出しました。

娘がそれを言い出すと、今までよく晴れていた空がにわかに曇り、雲が激しく行き来して風が巻き起こるようになりました。

 

石祠には「天竜弁財天」と刻まれています。

 

あまりに娘が熱心なので、ついに両親もこの願いを聞き入れることにしました。

いよいよ、娘は赤城山に登ることになり、娘のまわりには大勢の腰元や、乳母がつき、お伴も勢揃いしました。

 

途中、月田(前橋市粕川町月田)の近戸神社のそばの石に腰掛けたところ、乗っていた馬が急に病みだしたので、鞍をその石に掛け、駕籠に乗り換えて行きました。

月田近戸神社には「鞍掛石」が残っています。

 

娘を乗せた駕籠は、赤いツツジが咲き乱れる景色を眺めながら、山頂を目指して登って行きました。

行く手の野山には霧が立ち込め、彼方の谷には雲がわいて、この日の赤城山は、遠い昔に返ったように静まりかえっていました。

 

駕籠が山の上の小沼の畔に到着したとき、太陽は雲に隠れて雨が降り出し、雲は慌ただしく飛び交い、辺りの木々は風を呼び、沼の水面には波が立ち騒ぎ、山は荒れてきました。

 

静かな小沼水面

 

すると、娘が急に、「水が飲みたい」と言って、沼に近づいたかと思うと、いきなり底知れない沼に飛び込んでしまったのです。

お伴の者は、驚くばかりで、手を差し出す暇もありませんでした。

 

水面はいっそう荒れ、沼の真ん中から娘の声がしました。

「私は召されてこの沼の主になります。今まで育ててくださったお父様、お母様に、よろしくお伝えください」

娘は、もともと、小沼の主の龍だったのです。

 

お伴の腰元たちは、このままでは帰ることができないと皆が沼に入水し、カニになってしまいました。

このカニのことを「腰元ガニ」と呼んでいます。

 

また、娘の遺骸だけでも見つけようと、沼を取り囲む山の一部を切り崩して水を流したのが、今の粕川になったといいます。

 

石祠の横にある石碑

 

娘を失って深く悲しんだ長者は気落ちしてしまいましたが、よくよく考えて見ると、姫がしきりに赤城登山を願ったこと、生れた時に腋の下に鱗のようなものが生えていたことなど、それからそれへと思い当たることが多くありました。

 

道元はとうとう「姫は小沼の主が、人の世界に化けてきたものだったのだ。いまそれが元の水中に帰ったのだ」とあきらめるようになりました。

 

赤堀家では、その後、娘の命日には、赤飯を炊いて、重箱に詰めて沼に捧げることにしました。

重箱を小沼の岸辺に置くと、波に引かれて沼の中央に行き、やがて空になって返されるのですが、その中には、必ず龍のウロコが入っていたといいます。

 

石碑には、もう読み取れなくなったものもあります。

 

このことから、赤城山麓では、十六歳の娘の登山は避けていました。

どうしても登る場合は、子ガニを巾着の中に入れて沼に放つか、自分の身代わりとして鏡を投げ入れるようになったといいます。

(「赤城山をめぐる伝説とそのルーツの考察」参照)

 

小沼を見つめる小沼宮

 

※写真は平成三十年(2018)三月と七月に撮影したものです。

 

 

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