静御前伝説「観民稲荷神社」 | こにの神社参詣記

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各地に鎮まり給う八百万の神さまを
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観民稲荷神社(かんみんいなりじんじゃ)

☆☆☆

御祭神 食稲魂命

境内末社 厳島社 琴平宮 菅原社 秋葉社 水天宮

鎮座地 群馬県前橋市岩神町二丁目21-1

歴史・沿革

江戸時代初期の慶長六年(1601)酒井河内守重忠候が厩橋城主となった折、城内に水を曳きこむ風呂川の改修にあたって、その守護神として祭ったのがこの神社の始まりといわれています。

以来、酒井家累代の崇敬あつく、その後、江戸時代中期の寛永二年(1749)よりは松平大和守が引き続いて崇敬を得て明治に至ります。

風呂川は現在も神社の東側を沿うように流れています。

 

境内の厳島神社弁財天と、その右手側フェンスの辺りが風呂川

風呂川は、広瀬川から分水させて前橋城のために引かれた川で、城の防備や防火を始め、城下の生活用水を兼ねて作られたと考えられています。

城中の井戸水の欠乏、籠城、渇水の用意に、また堀の水にと入水しましたが、敵に城内の内情を知られないように「風呂」の名を利用したとの説や、上杉謙信が入城の際、入浴に使ったという伝説から風呂川の名がついたという説もあります。

 

弁財天と周囲を囲む堀

弁財天の社は、周囲が大人の背丈ほどに掘り込まれていて、以前は風呂川の水を引いた池でしたが、深くて危険なのと、木々の落葉が多く水が腐るため、もう長いこと水を入れていません。

 

拝殿と拝殿後方の本殿

明治四十四年(1911)には社殿が老朽化し建て替えする事となり、吾妻郡岩島村大字岩上にあった社殿を当時のお金、金五十円にて買い受け、それを改修しました。

大正元年(1912)九月十八日に完成し、現在に至ります。

 

社殿後方から

境内には厳島神社弁財天の他に、金比羅宮、秋葉神社、天満宮、水天宮があります。

 

天満宮と天神狛犬さん

 

秋葉神社

 

金比羅宮

観民と言う地名は、神社境内に元禄三年(1690)に厩橋藩五代藩主酒井忠挙候が観民亭と言う別荘を造り、御家中の遊興の場があったことから名付けられたと云います。

「観民稲荷」の名も、城主が城を出て民の様子を見た場所という意味だといわれています。

 

社殿前の稲荷狐さん

観民稲荷神社の正式名称は稲荷神社で、全国の稲荷神社の総本社は京都の伏見稲荷大社です。

稲荷神社の稲荷は、神様に稲の束を担って捧げたところから稲荷となったと言われています。

 

水天宮と千段の樹

石積みの小山の上にあります。

境内の西側には大きな老松があります。これは酒井氏が川越(現埼玉県川越市)から厩橋に入封する際に、菩提寺であった龍海院を川越からこの地に移しました。

この移設を記念して植えられたもので自ら風呂川の水を汲み与え「千段の樹(まつ)」と名付けたと云います。

 

手水舎

観民稲荷神社には神宝として鏡一面があります。

この神社の130mほど北の墓地(岩神町二丁目20)に、静御前の墓と伝えられる石祠が祀られています。

この地は静御前の終焉の地と伝えられ、遺品の「遺愛の鏡」を御神体として祀ったのが観民稲荷神社であるという伝説も伝わっています。

(境内案内板、前橋市HP、Wikより)

 

静御前は京の白拍子で、源義経の愛妾でした。

義経が追われる身となった際、「吾妻鏡」には、「義経に従っていたのは源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶並びに妾の静のみであった。」と書かれています。

義経が追われる身となり、静も捕らえられて鎌倉に送られました。

そのとき義経の子を身ごもっていましたが、生まれた子が頼朝に殺されたあと、静は放免されました。

伝説によれば、京へ向かう途中、この地で病に倒れたとされています。

静が病に伏せたとき、この辺りの水車守りが看病しました。

その家に「静」の姓と「鏡」を与えたと言われています。

現在でもこの周辺には静姓の家が数軒あります。

 

地域の公民館兼社務所

入口上の「でんわ☎でんぽう」の看板が絶妙に昭和の雰囲気を残しています。

 

※写真は平成三十年(2018)十月十七日に撮影したものです。

 

 

栃木県佐野市には、義経伝説に関連して、源有綱を祀る神社と常盤御前の五輪塔があります。