上野國一之宮 貫前神社 | こにの神社参詣記

こにの神社参詣記

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一之宮貫前神社(いちのみやぬきさきじんじゃ)

☆☆☆☆☆

御祭神 経津主神 姫大神

鎮座地 群馬県富岡市一之宮1535

境内摂社 抜鉾若御子神社

境内末社 月読神社 日枝神社 伊勢内宮・外宮 二十二社

 

貫前神社は「延喜式巻九・十神名帳 東山道神 上野国 甘楽郡 貫前神社」に比定される式内社(名神大社)です。

歴史的な一宮としての上野国一宮で、近代社格では国幣中社です。

御祭神の経津主神は葦原中国平定に功績があったと言われる神で、貫前神社では経津主神を物部氏の祖神と紹介しています。

姫大神は詳しいことは分からないのですが、一説には綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神ではないかと考えられています。

 

由緒

社伝によると、創建は第二十七代安閑天皇元年三月十五日、鷺宮(現安中市の咲前神社に比定)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀ったことが起源で、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれています。

中世に源頼義・義家父子を始めとする武家の崇敬を集め、室町時代末期には越後上杉・相模後北条・甲斐武田の各氏に支配された際も庇護を受けました。

特に武田氏は譜代家老の原昌胤が取次を務め、造替費用を棟別に課して、上野国を越えた策を講じたとされています。

江戸時代には徳川家の庇護を受け、現在の社殿が整えられました。当時は「抜鉾神社」とも呼ばれていました。

本殿、拝殿、楼門、回廊は、三代将軍徳川家光による寛永十二年(1635)の造営です。

元禄十一年(1698)、五代将軍徳川綱吉による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ、現在の華麗な造りとなりました。いずれも国の重要文化財に指定されています。

 

蓬ヶ丘上にある大鳥居

貫前神社は本殿が境内入口よりも低い位置にある「下り宮」で、正面参道から石段を上がり蓬ヶ丘上にある大鳥居・総門を潜り、今度は石段を下ってから綾女谷の本殿に参拝する地形になっています。

 

石段を下った先の桜門

石段を下った先に社殿などが存在する下り宮は、宮崎県日南市の「鵜戸神宮」、熊本県阿蘇郡高森町の「草部吉見神社」があります。貫前神社と合わせて日本三大下り宮と言われています。

 

大鳥居から見渡せる富岡市一之宮の南側の街並み

 

総門前の狛犬さん

 

富岡市指定重要文化財「唐銅製燈籠」の狛犬さん

 

桜門前の狛犬さん

 

桜門の右大臣・左大臣

 

境内東側の神楽殿

 

拝殿後方の本殿

 

境内西側の二十二末社

貫前神社では十二年ごとに式年遷宮が行われます。境内西側の二十二末社前の仮殿敷地に仮殿が築かれ、申年の十二月十二日に仮殿遷座祭、翌酉年の三月十三日に本殿遷座祭が催されます。

この三ヶ月の間に、本殿の修理・清掃を行います。平安時代の万寿二年(1025)以前から行われています。

 

二十二末社側から見た桜門前

 

本殿左後方の「抜鉾若御子神社」

本殿の裏に、樹齢千二百年といわれる藤太杉が立っています。平将門討伐のために出征した藤原秀郷が戦勝祈願として年齢と同じ三十六本の杉を奉納したうちの一本と云われています。

 

※写真は平成三十年(2018)八月三十日に撮影したものです。

 

こにの参詣した一之宮神社