ぴいちゃんの敏感さ、癇癪が通常のイヤイヤ期とは明らか違うので、どうしたものかと悩んでいました。
すると母は言いました。
あなたの子育ては大変だった。癇癪も酷いし立ち歩くし、親子教室で恥をかいて、ヤンチャだねーって笑われて惨めで何度も泣いたよ。反抗期はやばかったわ〜。手放そうかと何回も思ったよ。家が壊されるかと思う位大暴れするし。
でも、おばあちゃんに言われたの。沢山手がかかった子ほど将来親を助けてくれるよと。
その通り、お葬式の時にあなたが色々提案してくれたおかげで何とかなった事もあったし、他にも沢山助けられた。よく帰ってきてくれるのもあなただけ。おばあちゃんの言う通りになった。
そういえば、石田さんの大家族の末っ子君も、ヤンキーになってかなりグレてお母さんが心配していたよね。でも、大きくなった今は真面目な子に育って、一番親の事を考えているような感じがした。
ものは言いようだけど、手がかかる子ほど〜というのは、あながち間違いじゃないなと思ったよ。
あとね、我の強い子は一度こうと決めたら突き進むのよ。
子育てに悩んで泣いた時おばちゃんがよく言っていたことがある。
「我が強いから、この子は絶対こうと決めたら諦めない子だよ。自分の芯がしっかりしているからね。我の強さは、やりたい夢やお勉強に気持ちが向いた時、本当の力となる。それまで待ちなさい。絶対その時が来るから。辛抱強く待ちなさい。」
ママは、その言葉を信じて耐えてきた。
そう言われました。これは前から聞いていたので知っていましたが、改めて今の状況で言われた時に、非常に心に刺さりました。
私の絶対こうと決めたら曲げない時の第一回目は、17歳でやってきました。
遊び呆け、友達と夜遊び三昧。そして、年上の旦那と付き合いはじめて少し経った高校3年生の時に、おぬりを妊娠したのです。
周りは将来の事を考えて産まないほうが良いと言ってきました。私がまだ反抗期の抜けてない子供だったので、母も父も子供が子供を産むようなものだと言っていたのは記憶にあります。
しかし、赤ちゃんは守る!絶対に幸せにする!若いママだからって恥のかくことがないようにする!子育て第一に頑張る!と絶対に譲らず。
私に母性が芽生え始めた瞬間から、反抗期はなくなりました。子は私を強くさせてくれたのです。
そして、在学中に結婚し、無事におぬりを出産しました。
第二回目がやってきたのは、21歳の時。
自分には高卒の資格しかなく、子も2人いるのに生活がこの先不安だということに気づきました。旦那の給料は今よりも月々数十万低く、旦那の奨学金の支払いや車のローンで月7万出費もあったのです。
子が将来中学受験することになったら...私立の高校や大学に行きたいと言ったら...希望通り進学させてあげられる自信はありませんでした。
よし、看護師になろう!と決めたのはその時。
決めたらひたすら前に進むのみでした。
チャンスという流れ星は、皆が見えていないだけで沢山落ちてきている。その流れ星に気づいて掴み取る事が出来るかどうかで、私の未来は変わる。
そう思いながら、フルタイムのパートに出ました。夜は21時〜0時まで毎日お勉強。1年半お勉強して、小学生低学年レベルの学力を高校レベルまで上げ、一般の高校生に混じって看護学校の試験に臨みました。
結果は合格。23歳の時でした。
その3年後、無事看護師になれました。
三回目は、小3から始まったおぬりの中学受験。最後は過去最高に辛かった1年で、気が狂いそうになった。でも、親子で絶対に諦めなかった。
受験という山を乗り越えた時、頂上から見る絶景は、息を呑むほど美しかったです。努力したものにしか味わえない絶景が広がっていました。
親子でそれを体験できたことは、一生忘れません。
私の人生は、この我の強さが未来を切り開いてくれたと思っています。
おぬりみたいに、進学校に行ってる子達に比べたら、私の突然の努力なんか屁みたいなものかもしれないし、正直無謀です。遅咲きにも程がある😅
ですが、我が強くて負けず嫌いだからこそ、思い立ったら行動に移すという大きな力になったのだと思いました。
おばあちゃんから母へ、母から私へ受け継がれたこのお話は、必ず活かしていきたいなと思います。
ぴいちゃんの我の強さがいい方向に向くように、その時まで見守り、手助けをしてあげたい。彼の持つパワーを、信じてあげたいと思う。
いつも余裕なくて、情緒不安定で子供達には本当に迷惑ばかりかけています。お母ちゃん、これから少しずつ心を回復させて、また子育てをぼちぼちやっていきたいです。