「感情の発露」などと言う難しく思うかもしれないけど、つまりは他人に対して自分の考えていることや気持ちを、発言や行動としてオテモに出して伝えるということ。この「感情の発露」において、かねてから私は、気をつけるべきことが三点あると思っている。

(1) まず、それを言葉や行動にすることで、自分自身にどのように機能し変化するのか?
(2) そして、伝える相手に対してどのように機能して、相手が変化するか?
(3) さらに、その場にいる周囲の者にどのように機能して変化が生じるか?


簡単に言うと、英語のI、YOU、THEY。一人称と二人称と三人称ですな。
私はどのようなケースでも、この三点をとても意識している。無意識であれ意識的であれ、こうしたことを、ちゃんと配慮できる人が「分別のある社会人」であると思っていて、自分は「分別のある大人」でありたいと思っているからだ。

しかし現実において、この世の中は、残念なことに分別のない大人たちに充ちている。

たとえば先日のこと。
仕事仲間と食事をしていたら、隣のテーブルに高齢の男女がすわっていた。
女性は6~70代くらい。いわば私の親世代だ。男性は、女性は親なのか、やや年の離れた旦那なのか、8~90代といったところだろう。

で、女性は食事をしている間、ずっと休みなく、その男性を大きな声で罵倒し続けているのである。

「ほら、またこぼして」
「そんな醤油のかけ方したらドバっと出るでしょ」
「そんなに汚い食べ方しないで」
「ちゃんと座りなさい」
「はやく食べなさい」
「もっと、よくかんで」etc...

男性は、やや動作が遅いものの、私たちが横目で観察するかぎり、痴呆が進んでいるというわけではない。自分で器を手にして、食べ物を口に運んでいる。目の前の女性に罵倒されながら、黙々と食事を続けている。

となりのテーブルにいた私は、女性の終わりない罵倒を聞きながら、前述の「一人称・二人称・三人称」について考えていた。

(A)まず女性当人にとって。旦那であれ親であれ、介護状態の相手にイライラするのは理解するけど、そこまで大声で罵倒していると、彼女のイライラはむしろ増すように思う。罵倒という行為は女性を救うか? 私は「救わない」と思う。

(B)次に、男性。罵倒することで、その男性の状態は改善するだろうか。その原因で痴呆でも、がさつな性格でも、罵倒するくらいでまったく改善しないことは、誰よりも女性自身が知っているはずだ。罵倒する行為は、おそらく男性にとって日常であり、男性の行為は罵倒によって変化しない。

(C)そして、周囲。つまりとなりのテーブルにいる私たちである。私たちにとって女性の罵倒は、100%迷惑なものでしかない。そこから何も生まれない。不快なだけである。その視点がおばちゃんはゼロである。



ひいては、ここ。ピグというSNSを通じて私が感じているモヤモヤは、往々にこのおばちゃんと同じ構図で感じられることが多い。

たとえば「テーマ別の居酒屋」などで、自分の感情を発露する者。相手を口説いたり、説得したりすることだけを目的とするもの。私の発言だけを黙って聞いていて、自分のことはかたくなに語ろうとしない者。

「一人称・二人称・三人称」がバランスよく考えられて初めて、コミュニケーションというものは成立するはずだと私は思っているのであるが、自分にとっての「都合のよさ」だけを考えて振る舞っていると、得てしてコミュニケーションは、飲食店で罵倒をし続けるおばちゃんのような状態に陥ることがあるのだと思う。

「そんなことまで配慮して、八方美人になれない」と思う人もいるかもしれない。
しかし私は、(3)を意識するあまり、(1)を本来の姿から捻じ曲げてしまうことが、悪い意味での八方美人だと思っている。しっかりとした(1)を発露するために、(2)や(3)を配慮すること自体は、何ら悪いことではないはずだ。

むしろ、それを無視する行為にこそ、不完全なコミュニケーションの元凶はあると信じている。そのことをわかりやすく具現化した姿が、「罵倒するおばちゃん」にあると感じられたのだ。

私は、あまりパッとしない味のショウガ焼きをご飯の上にバウンドさせながら、「なんか、たまんないな」と思いつつ、ただただ、その場を一刻も早く離れたいと思っていたのである。