團菊祭
五月大歌舞伎
市川右團次ブログで、猿翁の荒獅子男之助が紹介された。
あれを見ると、この役の幅の広さを感じる。
猿翁のそれはさらなる迫力がある。
モノクロの写真でしかないのだが、凄みが違う。
実際、右團次さんの男之助は、とてもかっこよくて、合っていると思う。
が、これよりも先があるのかと思うと、芸の果てしなさを感じる。男之助が豪快な様式美を見せることで、すぐ次の弾正の妖しさが引き立つ。
実によく考えられた移行演出だ。
前回、見逃した「合点だ!!」は、きちんと拝見した。
よかった~。
さて、お待ちかねの團十郎。
前二回で充分にその魅力は確認していても、やはり、あの姿に魅入られた。
グラス越しに食い入るように眺めていて、何か苦しいなと思ったら。
呼吸を止めていた。
まさしく、息を呑むということ。
そして、自分の気持ちに気付いた。
この團十郎の仁木弾正に愛おしさを抱いていた。
何じゃそりゃ?と自問自答したが、やはり疑いはなかった。
彼が瞳を閉じて、一巻を咥えて、印を結ぶ。
あの姿が堪らない。
巻物を咥えている口元、唇。
そしてその巻物を離した直後の、フワッと軽く開いた口、その形。
柔らか味が溢れている。
印を結ぶ指先は優しく、上に向ける手のひらには温かみを感じる。
彼(弾正)は、究極の悪人なのに。。
”極悪”だけど”優しい”。
たまらないキャラクター設定じゃないか!
こんなのズルいぞ!
心が優しいのではなく、仕草が優雅で柔らかいということかもしれない。
野望ある冷酷な男だが、その出自は極めて風雅なのだろう。執権を務める家柄だもの。
終演後、地下の舞台写真売り場へ行ってみた。
ここで成田屋の弾正を見てみる。
格好いいのは間違いないが、さっき感じた艶かしさはなかった。
つまり、私が抱いた愛おしさは、團十郎の”生の魅力”だということ。
例えば、あの後、弾正が討たれて、首だけになったとする。
その首を優しく抱きしめたとき、指先は彼の肌に柔らかくめり込むだろう。
そういう妄想まで描いてしまうほどに、あの弾正に魅せられてしまった。
ここまで来ると、もはや江戸川乱歩の世界だ。