「本当の自分」なんて... 何処にいるの?

    『自分らしさ』って なに?


それがもの凄く分かり辛いから
こんなにすったもんだしてるンだよね...

そんなことが簡単に分かる位なら
それが直ぐに探し出せるなら
皆 こんなに苦労はしないよ...
 
本当のことを教えてくれる人が
本当の意味で いない
それも きっと仕方のないこと

だって
きっと それを知ってる人は
既に そんなことはどうでもよくなっているか
もう 前のコトなんて 全部 忘れているから...



本当に... 本当に
好きなこと「だけ」をやって生きていく... ということは
もし それが社会に適合していて
万人に賛同を得られるような生き方なら
社会的に見てきっとそれが所謂「素晴らしい」とか
「素敵な」生き方だと云われるだろう

もし それが不適合な生き方なら きっと...
「変わってる」って云われるんだと思う

人から見て「変わってる」「ヘンだ」って云われるのが嫌で
無理に「素敵な」な生き方を演じていると 
いつかは疲弊してボロが出る...
大体その前にそうしていることが周囲にバレていて
結構イタイ感じで一人芝居的な日々を送ることになる 

当の本人にも社会常識の知識は備わっていて
自分が実際には「どんな風に人に映っているか?」
大凡の想像は付いている

人は誰しも「良く見られたい」という願望は少なからずあると思う
「悪く見られる」よりも その方が幾ばくかはマシだと思っている
それは 人は本来この現実世界では
「一人では生きていけない」って識っているから...
 
でも 周囲を見渡してみると
現実的に絶対に「社会不適合」な生き方をしているのにもかかわらず
そう「悪くは見られていない」人も確かに居るし 知っている
そして そんな人を目の当たりにしてしまうと
いつも思うコトがある...
「きっと あの人は『自分らしく』生きているんだろうな」って
『自分らしく』生きていることが本当に眩しくて本当に素晴らしく思える
そして『自分らしく』生きることの素晴らしさを知り
我が身を振り返ってみると...
自分が如何に『自分らしく』生きて来なかったかを思い知る
もし いまの自分が本当に『自分らしく』生きることができたら...
この世界はどんな風に変わるのだろうか?
この世界は自分の目にどんな風に映るのだろう...
この世界は自分を どんな風に受け入れてくれるのだろう...
あの人は この人は 私のことを どんな風に思ってくれるのだろう...
そうして その日から『自分らしさ』を取り戻すための旅が始まる

今までの「他人に合わせ」自分を蔑ろにし 
人に流され「他人軸」で生きて来たことを改心し
忘れ掛けていた「本当の自分」探しが始まる

でも 悲しいかな...
そう想って始めた「自分探しの旅」は その時点で既に
それは『自分らしく』とはほど遠いものになってしまっている

探し求めている「本当の自分」は
他人に良く思われたい『自分らしさ』であって
誰にどう思われても構わないという『本当の自分』では
無くなってしまっている
だって 誰だって「そんなとこからスタートしよう」なんて
思わないでしょ?
「誰にどう思われても構わないような自分」になりたくては
探し始めないでしょ?っていうこと

自分が知っている 見たことがあるあの人は確かに
『自分らしく』生きている
それが例え常識的でも非常識にでも
どんな風であっても あの人はまったく気にしてない
すべてを思い通りに生きている 

それでいて なにか非難されることもなく 
むしろ他人はそれを『あの人らしい』と賞賛する

その人の様になりたいかどうかは別にして 
そんな生き方にどうしても魅力を感じてしまう
果たして自分は「今を自分らしく」生きているのだろうか?
今この「思い通りになっていない現実」は 
自分が『自分らしく』生きていないことが起因しているのだとしたら?
もしも 自分が『自分らしく』生きていったなら 
これから先の世界は「思い通りの現実」になるのかも知れない…
そう思ってもまったく不思議ではないけれど 
だけど それが本当に『自分らしい』と云うことなんだろうか?

そもそも『本当の自分』って何処にいるの...
『本当の自分』ってそもそも存在するの?
あなたは あなたではなく「本当のあなた」が何処かにいるの?
私は 私ではなく「本当の私」が存在するの?

仮にいるとして 
じゃあいったい何処にいて いま何をしているの?

それが分からなくて...
それが知りたくて探しているんだ!と云うならば

それをしている「あなたこそ」が
それをしている「私こそ」が 
その中途半端な状態の自分こそが
本当の意味で『自分らしい』って云うンじゃない?って思います


「何かになった自分」じゃなくって
『一生懸命何かになろうとする自分』
カッコつけようが 嫌がられようが イタかろうが
それに確信を持って自でやっている自分がむしろ『本来の自分』
なにを隠そう『自分らしさ』の象徴じゃないのか...って思います


「素の自分」とか云うけれど...
その「素」の状態で今までやって来たワケだから
カッコつけも 嫌なコトも 不本意だと言いながらも 
だけど 紛れもなく実行してきた
仕方なかった しようがなかったと言いながらも 
だけど 結局は自分で決めて行動してきた
いま それでもこうして「生きている」と云うことは
それが 自分にとってすべて正解だった 

自ら不幸になるために何かをする人はいない 
全部が幸せになるための行動だった
どんなに嫌なコトでも どんなに理不尽なことでも
幸せになるためなら 生きていくためならと
決断して実行して来たことのハズ
そして いま こうして「生きている」と云うことは
どっちにしても どう転んでも それが
「自分にとって最善だった」というコトだと思う

だったら いま在る自分というのは?
それが本当の自分で『本来の自分らしさ』というものだと思います


三次元的に考えて... 
自分はこの世界に於いて「同時に二人以上」は存在し得ない
存在するとすれば それはきっと
「自分の中」か「パラレルワールド」だろう
 
仮に何処かに「もう一人の自分」が居たとして
そのもう一人の自分になろうとするならば
いま ここに居る自分とは決別しなければならない
そして いま ここに居る自分の
「その想い」とも決別することになる
いま感じているその意識(魂)は確かに いまここに居る自分のもの
だとすれば もう一人の自分にもまた「もう一つの意識」が在る

もし 意識(魂)は一つで相互どちらかに宿るのだとしたら
置き去りにしようとする「いまの自分」には
もう一人の自分に成り得たときのその感覚を
味あわせてやることはできない...
もう一人の「新しい自分」になって新しい世界を味わえばいい
それはもの凄く切ないことだけれど...

もし 意識(魂)は同時に相互に宿ることが出来るなら
もう こんな面倒なことはヤメにして
その意識だけを飛ばせばいいじゃないか!
いつでも その「もう一人の自分」になるコトができるハズ


結局のところ
「本来の自分」に戻るとか『本当の自分』探しという旅は
その行為すべてを含めて【素の自分】だということで
あたかも「もう一人の自分」が何処かに居て
それと入れ替わったり交わったり出来るような
そういう存在だと思っていたけれど...
いや この際本当に居ても居なくてもどちらでもいいのだが
それを探そうとしたり それになろうとした時点で既に
それは幻になり 追い続けるその「本来の自分」とは
いま ここに居る自分が創り出す
『ホログラム』になってしまうってことだ


本当に居た「かも」知れないハズの『本来の自分』を
幻想にしてしまうのは紛れもなく「いまの自分」で
いまの自分が
『本当の自分』だと云うことを識ることが

本当の意味での【自分らしさ】じゃないのかなって思います