福知山線脱線事故に思う | 砂上の賃貸

福知山線脱線事故に思う

果たして、僕はこのエントリは書くべきでないのかもしれない。結局のところ遠き地でメディアを通して知っただけの事件であり、もちろん明日は我が身であると言ったところで、向こうに済んでいる友人が無事だったと言ったところで、やはり他人事であることには変わらない。つまるところ当事者ではないということだ。そして、あえて事件にコミットするために「当事者」の資格を強弁してまで手に入れようとするのは愚かで欺瞞に満ちた行為だ。それは、他人事である自分への後ろめたさから来る卑怯な振る舞いでしかない。
 
それでも、他人事でしかないことを自覚しつつも、感じたことを言葉にして知らない人の目に触れるところに書きたいと思う自分がここにいる。だから、書こうと思う。
 
 
時がたつにつれて死者の数が増え、様々な原因らしき要素の断片が吐き出されていくニュースを消費していくことへの苛立ち。それは、社会に対しての苛立ちではなく、自分自身もやはりニュースを知ることで消費せざるを得ないことへの苛立ち。これまでも、これからも、たくさんの不幸な事件は起こり続け、それは常に消費されていく。そのことに抗うために、ときには事件から教訓を求め、ときには悪を糾弾するかもしれない。せめてもの関わりを求めて募金などをすることもあるかもしれない。
 
けれど事件は起こり続け、因果などとは無関係に不運な人が不幸な事件に遭い、そのニュースを知っては忘れていくのだろう。とめどなく流れ続ける洪水のような情報の前に人は無力だ。全てを遮断して無関係でいられるほど強靱な精神の持ち主はおらず、何らかの心が揺さぶられる。そして、世界の理不尽さ、人の無力さを思い知らされずにはいられない。そんな理不尽さや無力さから逃れるために、人は正義を叫び、より完全で安全なシステムを求めたりするかもしれない。あるいは、神を持ち出すかもしれない。しかし僕は、正義につきまとううさんくささと暴力性を恐れ、完全で安全なシステムとは信仰に他ならないと考え、神は形を持たず目に見えず、どこかにそっと静かにいてごくごくささやかな御利益とばちを与えるだけの存在だと思っている。
 
だから僕は、この世界は理不尽であり、人は無力であることを自覚し、その苛立ちに耐えようと思う。コミットのできない断絶された場所でメディアからの溢れ続ける情報を否応なく受け続ける中での、身を守るための振る舞いとして。もちろん、ただ耐え続けるのではなく、事件そのものに対して何らかの言葉も発したりするだろう。それでも、その言葉は遠くから発した無力なものでしかないことは忘れないでいようと思う。そして矛盾するようだけれど、無力な言葉であっても、発せられればそこに残り何らかの力を持つことも忘れずに。