
(ED401・西長岡・1989年8月)
ED400形は最後の自社発注機で1967年から廃止まで活躍しました。
越後交通は1966(昭和41)年以降、何度かの部分廃止と旅客営業廃止を経て、最後まで残っていた来迎寺~西長岡間が1995(平成7)年に廃止されました。同区間が廃止されて18年後の今、駆け足ながら同区間を探索することができました。
起点となる来迎寺駅はJR東日本信越本線の駅で、貨物の受け渡しを行なっていました。

(来迎寺・2013年7月9日)
信越本線のホームの左側にあった、たヤードと越後交通のホームは完全に宅地化されています。また信越本線も2面3線から2面2線に縮小。なお駅舎の向こう側には国鉄魚沼線の0番ホームがありました。また魚沼線の前身である魚沼鉄道新来迎寺駅は来迎寺駅前にありましたが、現在はJRの駐車場になっているそうです。
この跨線橋付近までは宅地化されていますが、その先にはいかにもの廃線跡が始まります。越後交通は信越本線から右に大きくカーブして北へ進路をとりますが、田んぼの中の築堤はそのまま残っています。

(来迎寺~深沢・2013年7月9日)
用水路のガーダー橋も残っていました。
このカーブの先で渋海川を渡っていましたが、鉄橋は残っておらず、川の北側の築堤も一部を残して除去されていました。
この築堤が終わると深沢駅がありました。現在もホームが残っています。

(深沢・2013年7月9日)
駅舎の基礎部分も残っていました。
廃線跡は再び田園のなかを真っ直ぐ北北東に進んでいきます。ところどころに踏切とレールが残っていました。

(深沢~上富岡・2013年7月9日)
小川を渡る鉄橋はガーダーが取り除かれていましたが、レールは取り残されて宙に浮いていてなんだかシュールな光景です。

(深沢~上富岡・2013年7月9日)
この先の林の手前にコンビニエンスストアがあるのですが、そこが上富岡駅の跡になります。
上富岡の先、越後交通は進路をやや右に曲げて関越自動車道をくぐっていました。

(上富岡~才津・2013年7月9日)
関越自動車道をくぐった先に才津駅がありました。

(才津・2013年7月9日)
構内は広く、セメント工場からの貨物がありましたが、これが越後交通の貨物輸送が残っていた理由。いまでは工場もなくなりました。
才津駅の先で進路はさらに右へ曲がり、ほぼ北東を目指します。途中に有栗駅がありましたが旅客営業廃止の際に廃止。なお有栗駅は一度移転しているらしく、旧有栗駅はこの付近にあったとか?

(有栗~西長岡・2013年7月9日)
この付近からは住宅街の中を線路が走っていました。

(有栗~西長岡・2013年7月9日)
しばらく行くと、進路はさらに右に曲がってほぼ東へ向かう形になります。そして寺泊からの線路と合流します。

(有栗~西長岡・2013年7月9日)
写真右が寺泊方向、左が来迎寺方向です。
分岐点から東へ少し行くと西長岡駅跡。

(西長岡・2013年7月9日)
現在は商業施設が建っています。

(西長岡・2013年7月9日)
最後の貨物営業は来迎寺~才津間でしたが、車庫があった関係で才津~西長岡間も最後まで残っていました。

(ED5101・西長岡・1989年8月)
ED5100型は元定山渓鉄道ED500形で1969年に長野電鉄に譲渡された後、1979年に越後交通に入線しましたが、越後交通の廃止と共に廃車、解体されてしまいました。個人的には好きな私鉄電機のひとつでした。