
(長門本山・2002年2月26日)
42系は1933(昭和8)~1935(昭和10)年に京阪神地区向けに製造された20m級2扉クロスシート車です。1936(昭和11)~1937(昭和12)年には急行電車用として52系流電も製造されましたが、ここでは両系列を42系として総称します。
42系は両運転台のモハ42、片運転台のモハ43、モハ52、制御車のクハ58、クロハ59、中間車のサロハ46-100、サロハ66、サハ48、そして横須賀線用のモハユニ44が製造されました。このうちサロハ46とサハ48は、窓配置が異なるものの32系の付随車と同じ形式を与えられました。
42系のハイライトは京阪神地区の急行電車に使用されたことで、現在の新快速のルーツとも言える電車でした。
初めてグリーンマックスのNゲージキットを購入した時もクモハ43とクハ47を選んだのを覚えています。
[1981(昭和56)年]
そんな42系ですが、流電は自分が札幌に在住していた1978(昭和53)年に引退してしまったので、現役時代を見ることはまったく不可能でした。
1980(昭和55)年、新潟に引っ越して父方の祖父母が住む神奈川への行きやすくなりました。そして1981(昭和56)年の、中1の夏に神奈川の祖父母宅から愛媛にある母方の祖父母宅までひとり旅をすることになり、その途中念願の身延線詣をすることができました。32系と40系の回でも身延線が出てきますが、同じ旅での出来事です。
153系による321Mを富士駅で降りて、旧富士電車区まで歩いて行くとたくさんの戦前形旧国が留置されていました。その中にあったクモハ51850が初めて出会った42系でした。

(旧富士電車区・1981年8月)
クモハ51850は元クモハ43008。モハ43008は他のモハ43と共に1950(昭和25)年に横須賀線に転属しました。
1959(昭和34)年の形式称号改正でクモハ43008となり、引き続き横須賀線で活躍していましたが、1963(昭和38)年に70系に合わせて3扉化されてクモハ51202となり、その後身延線に入線する際にパンタグラフを後位に移設した上でパンタグラフ部分を低屋根化したものです。
増設された扉と戸袋窓はHゴムで支持されていました。
クモハ51850を見た後、事務所に行って撮影許可を頂いて構内を歩いて行くとクモハユニ44803が目に入りました。もちろん42系の一員です。

(旧富士電車区・1981年8月)
クモハユニ44は1934(昭和9)年に横須賀線用として5両製造された郵便荷物合造車です。このうちモハユニ44003は大糸線に転出した後、クモハユニ44000に改番。その後1968(昭和43)年にパンタグラフを後位に移設して部分低屋根化され、クモハユニ44803として身延線に入線しました。
パンタグラフを移設した際に、前位側にはベンチレーターを設けなかったため、屋根上にベンチレーターが3個しかありませんでした。ちなみにクモハユニ44で803のみがこのスタイルで、いきなり珍車に出会った気分でした。
なおクモハユニ44803の幕板にある列車番号表示器は製造当時のままでした。
そしてクモハユニ44といえばやっぱりこちらのクモハユニ44800ですね。

(旧富士電車区・1981年8月)
1956(昭和31)年に横須賀線から身延線に転属したモハユニ44001、002、004(003は戦災廃車)は屋根全体を低屋根化して印象が大きく変わりました。この3両は1959(昭和34)年6月の形式称号改正でクモハユニ44となった後、12月にクモハユニ44800~803となりました。
クモハユニ44を2タイプとも見ることができたのもラッキーでした。その興奮を胸に身延線柚木駅まで歩いて行き、そこから62系で入山瀬まで行って上り電車を待ちました。そしてやって来た電車の最後尾はクモハユニ44802。なんと見るだけじゃなくて乗車することもできて本当にラッキーでした。

(富士駅・1981年8月)
荷物を降ろす光景も懐かしいですね。低屋根車は、やはり全低屋根の方が古き良き身延線という感じがしました。
この後153系の急行「東海」に乗車して富士を離脱しました。
[1983(昭和58)年]
戦前形旧型国電最後の天国だった飯田線伊那松島機関区には42系もクモハ43、クモハ53、クハ47や42系改造車が残存していました。しかし1983(昭和58)年に119系が増備されていよいよ引退の時を迎えました。
そこで引退直前の6月、新宿からL特急「あずさ」に乗って辰野に向かいました。そして、辰野から乗車した電車はクモハ53001。横須賀線に転じたモハ43の主電動機をMT30に換装した高出力化車両でした。残念ながら中間に連結されていた上に辰野では貨車の影にかくれ、伊那松島駅でもすぐに発車してしまったので写真を撮ることができなかったのが悔やまれるところ。
そして伊那松島機関区到着し、事務所に許可をもらって構内に入ると、そこにはクモハ53008が待機していました。

(伊那松島機関区・1983年6月)
元は流電グループの最終形であるモハ43040で、流電2次車の側面と半流形の前面を兼ね備えたスタイルをしていました。そのためとある愛称で呼ばれていたのですが、今では放送禁止用語になっているので割愛します。
モハ43040は、モハ43041と共に1953(昭和28)年度の更新修繕で主電動機を126kW出力のMT30に交換。その後1953(昭和28)年の形式称号改正でモハ53008となりました。そして1957(昭和32)年に飯田線に転属。
本当は張り上げ屋根のクモハ53007が見たかったのですが、機関区で職員さんにいただいた運用表ではクモハ53007は豊橋に向かっているようでした。それにクモハ43015もしばらく戻ってこない感じでしたが、車種バリエーションが豊富で長距離な飯田線の場合、一度行ったぐらいで車両を網羅できるわけはなく、その割にはラッキーだったかなと思います。
機関区で頂いた運用表を調べてみると、クモハ43015も戻って来そうになかったのですが、クハ47104が辰野に留置されていることが分かりましたので、帰りに辰野に寄りました。

(辰野・1983年6月)
クハ47104は元クハ58007で、1953(昭和28)年の形式称号改正で32系クハ47に編入されると共に100番代に区分されました。戦災や戦時改造から逃れたクハ58は9両いましたが、そのうち7両は身延線に入線後の1951(昭和26)年に便所を設置し、当時伊東線にいた2両はクハ47に改番後、1956(昭和31)年に身延線に転じた際に便所を取り付けました。
そしてこのクハ68405も元42系の2等合造車クロハ59009です。

(辰野・1983年6月)
クロハ59は1941(昭和16)~1942(昭和17)年にかけて16両が格下げと3扉化改造を受けてクハ68に改造されましたが、クロハ59009もその1両でクハ68029となりましたが、さらに戦時輸送に対応するためロングシート化されてクハ55143となりました。戦後さらにクロスシートが復活してクハ68009に改造された後、1968(昭和43)年に便所を取り付けてクハ68405となりました。
この飯田線撮影行では完璧でありませんでしたが、42系を体感することができたという点で、とてもいい思い出となりました。
この後飯田線から戦前形旧型国電は全廃され、42系も小野田市線のクモハ42だけとなってしまいました。
[1984(昭和59)年]
1984(昭和59)年、高1の夏に九州旅行に行く途中、小野田線本山支線に立ち寄りました。狙いはもちろんクモハ42です。
宇部、小野田線の40系は既に105系によって置き換えられていたのですが、本山支線の3両のクモハ42だけが生き残っていたのです。まるで鶴見線大川支線のクモハ12の様ですね。
小郡駅から105系に乗って宇部新川まで行き、そこから小野田線の105系に乗り換えて雀田へ行きました。雀田からはクモハ42006に乗車して長門本山まで一往復の旅でした。

(長門本山・1984年8月)
この頃のクモハ42は宇部電車区オリジナルの黄色い警戒色入りぶどう色。
単行運転が前提なのでジャンパ連結器や渡り板などは撤去済み。この後1991(平成3)年の夏には車で長門本山を訪れているのですが、写真が見つかりませんでした。
なお3両在籍していたクモハ42のうち、005は1986(昭和61)年に廃車され、006も2000(平成12)年に廃車となりました。
[1992(平成4)年]
1978(昭和53)年に全廃となった流電クモハ52ですが、5両中001と004の2両は解体を免れて国鉄吹田工場と日本車両豊川事業所に保存されていました。このうちクモハ52004は1991(平成3)年に開設された佐久間レールパークに保存されたことを知り、1992(平成4)年の夏に佐久間レールパークへ車を走らせました。

(佐久間レールパーク・1992年8月11日)
クモハ52004は流電2次車として1937(昭和12)年に登場した第2~3編成の制御電動車です。流線形の先頭部やスカート付でノーシルノーヘッダーの車体、張り上げ屋根などは1次車と同様ですが、1100mmの広窓を採用したのが大きな特徴でした。
しかし整備性や使い勝手が悪かったため、乗員扉の設置やスカートの撤去、雨樋の設置などの改造が施されてしまいます。その中で004は振り上げ屋根のまま残った車両でした。
保存された当初、クモハ52004は飯田線での晩年の姿で保存されていましたが、自分はこちらの姿しか知らなかったので違和感は感じませんでした。
[2002(平成14)年]
この時はまだクモハ42001が現役でした。しかし、そろそろ危ないという噂もありましたので、もう一度現役の姿を見ようと思い、長門本山へ向かいました。
そしてクモハ42001はパンタグラフをPS16に交換するなどされていましたが、まだ元気そうな姿を見せてくれました。

(浜河内~長門本山・2002年2月26日)
しかしクモハ42001は2003(平成15)年3月14日で引退してしまい、これで戦前形旧国の営業運転は終了しました。
2両保存されている流電のうち、佐久間レールパークのクモハ52004は常時公開しているのですが、吹田工場敷地内に保存されているクモハ52001は、年に一度の一般公開時以外は近寄ることができません。
でもタイミングがそう合うわけでもなく、ある日出張ついでに吹田工場に田著寄って「東京から見に来た」と頼んでみたら、入れてもらえました。

(吹田工場・2002年12月9日)
クモハ52001は、モハ52001が登場した時に近い姿に復元されていました。ただし塗色は2次車登場以降に塗り替えた姿となっています。また扉はプレスドアのままで、台車もDT13を履いています。
モハ52001は1981(昭和56)年に準鉄道記念物に指定されています。
[2009(平成21)年]
リニア・鉄道館開館を前に閉鎖されることになった佐久間レールパーク。屋外展示の姿を見るのはこれが最後だろうと思い、2度目の佐久間レールパーク詣でに行って来ました。
そこには中途半端に復元されたクモハ52004がいました。

(佐久間レールパーク・2009年6月7日)
この時は塗色の復元や前照灯の埋め込み、スカートの取り付けは行なわれていましたが乗務員扉やグローブ形ベンチレーターはそのままという姿。
正直ちょっと複雑な思いで見ていました。
11月7日には下関総合車両所での一般公開があったのでクモハ42001を見に行ってきました。

(下関総合車両所・2009年11月7日)
現役を退いて6年。保存状態は良いようでした。このクモハ42001はJR西日本が京都に建設するといわれている博物館に入れてもらいたいものです。
[2011(平成23)年]
かねてからの予告通り、3月14日にリニア・鉄道館がオープンし、佐久間レールパークに保存されていたクモハ52004も移設されました。

(リニア・鉄道館・2011年11月7日)
クモハ52004は乗務員扉がなくなり、ベンチレーターもガーランド形に復元されました。パンタグラフはPS13のままですが、それでもきれいに復元されたと言えますね。
モハ52004に戻った彼女は新幹線や特急形車両と共にスピードの歴史を語ってくれる生き証人として今後も活躍してくれることでしょう。