
(鉄道博物館・2007年11月30日)
両運転台のモハ40と片運転台のモハ41、制御車のクハ55、中間車のサロハ56、サハ57を基本としていましたが、ホーム有効長が短い山手線などの東京向けに17m級片運転台のモハ33、両運転台のモハ34も1932(昭和7)~1933(昭和8)年に製造されました。
製造期間が長かったため、製造年次による、形状の違いなどがありますが、その中でも一番大きな変化が1935(昭和10)年に前面形状が平妻から半流に変わったことです。半流形では荷物合造車のクハニ67も製造されました。
またモハ40、モハ41は100kW出力のMT15を搭載していましたが、途中から126kW出力のMT30を搭載したモハ60が登場しました。両運転形の高出力車はモハ40を改造しましたが、新形式のモハ61となっています。
大都市の通勤電車的イメージがあった40系ですが、現役で活躍した40系は青梅線で見たことがあるのかな? という程度で実はあまり馴染みがありませんでした。40系最後の牙城だった宇部・小野田線は、自分が訪問する前に105系化されてしまったので、なおさらですね。
[1981(昭和56)年]
さて、自分が初めて40系を見たのは1981(昭和56)年に身延線旧富士電車区を訪れた時になります。この時最初に見たのがクハ68093でした。

(旧富士電車区・1981年8月)
40系のお話しなのになんで51系のクハ68なのかといいますと、このクハ68093は元々クハ55075だったからです。40系も51系も同じ20m3扉車ですが、扉間の窓の数が40系は5個なのに対して51系は6個という違いがあります。
さて、京阪神エリアで運用されていたモハ60とクハ55は1952(昭和27)年にセミクロスシート化され、1953(昭和28)年に51系のモハ54形100番代とクハ68に編入されたわけです。
自分はクハ55を見たことはないのですが、このような形でクハ55ベースの改造車に出会うことはできました。
系列変更していない40系の電車として最初に出会ったのがクモハ60816です。

(旧富士電車区・1981年8月)
クモハ60816は1970(昭和45)年にクモハ14を置き換えるために、身延線の狭小トンネル対策としてクモハ60124のパンタグラフ部分を低屋根化したものです。自分がクモハ60を見たのは、これが最初で最後となりました。
[1982(昭和57)年]
東北・上越新幹線の開業や153系の撤退などで首都圏を走り回っていた1982年でしたが、この頃まだ首都圏でもクモハ40が走っているという情報を知りました。その情報によると車両基地と駅を結ぶ職員輸送列車にクモハ40が使用されているということで、チャンスを見計らって撮影に出かけました。
最初に行ったのは大船駅。横須賀線電車の基地だった大船電車区は大船駅からかなり離れていたため、クモハ40による職員輸送列車が運転されていたのですが、ここのクモハ40は豪華な2両編成でした。

クモハ40059(大船・1982年)

クモハ40071(大船・1982年)
いずれも1935(昭和10)年製の半流形でした。半流の両運転台車ってクモハ40しかなかったのですが、なかなかかっこいいと思いました。ちなみにこの2両は1983(昭和58)年度に廃車されたようです。
国府津電車区も国府津駅から離れていたため職員輸送列車が運転されていました。ここには平妻のクモハ40054と半流のクモハ40074が配置されていたのですが、自分が行った時はいつもクモハ40054でした。

(国府津~国府津電車区・1982年)
クモハ40054は1935(昭和10)年製造の平妻最終形で、落成当初は東京地区向けとして7芯のジャンパ連結器を3栓備えていたため、大阪地区と区別するために、100番代に区分されてモハ40134とされていましたが、1936(昭和11)年にモハ40054に改番されました。
これが、自分が見た最初の平妻40系となります。
[1983(昭和58)年]
1983年、引退する飯田線の戦前形旧国を撮影するために中央本線経由で伊那松島を目指しました。そして辰野から乗り換える飯田線の電車にクハ68418が連結されていました。

(辰野・1983年6月)
クハ68418の元となるクハ55016は1932(昭和7年)に製造された平妻の初期型。セミクロスシート化された後、1953(昭和28)年にクハ68066に改番され、さらに1974(昭和49)年に便所を取り付けてクハ68418となりました。
伊那松島機関区にはたくさんの戦前形旧国が待機していたのですが、その中にクモハ61007もいました。

(伊那松島機関区・1983年6月)
クモハ61はモハ40の主電動機をMT30に換装した車両で1952(昭和27)~1953(昭和28)年に6両が改造され、1953(昭和28)年にモハ61に形式変更されました。飯田線にはこのクモハ61004を含めて003、005の3両が最後まで在籍していましたが1983(昭和58)年度に廃車されました。
伊那松島機関区には元モハ60102のクモハ54129も留置されていました。

(伊那松島機関区・1983年6月)
構内を入れ換えているクハ68412。

(伊那松島機関区・1983年6月)
この車両はクハ55092をセミクロスシート化の後クハ68106に改番し、1972(昭和47)年にトイレを設置してクハ68412になりました。
またクハ68416も入れ替えしていました。

(伊那松島機関区・1983年6月)
同車はクハ55076をセミクロスシート化してクハ68094となり1974(昭和49)年に便所を取り付けています。
そして郵便荷物構造車のクハユニ56004も元は40系の荷物合造車クハニ67005です。

(伊那松島機関区・1983年6月)
クハニ67は1936(昭和11)年に2両、1939(昭和14)年6両が製造されましたが、1951(昭和26)・1952(昭和27)年に4両がクハユニ56に改造されました。半流非貫通構造の前面もなかなかいいですね。
伊那松島を離脱して、辰野の電留線に向かったらクモハ54108が昼寝していました。

(辰野・1983年6月)
同車は旧モハ60036です。
こんな感じで飯田線でも40系縁の車両に意外と会うことができました
[2003(平成15)年]
国府津のクモハ40054は動態保存用としてJR東日本に承継されました。半流のクモハ40074は国鉄時代の1987(昭和62)年3月31日で廃車されましたが、1988(昭和63)年に車籍を復帰。しかしブレーキ系統の2重化ができないため、2両とも運行を終了し、大宮総合車両センターで保管されていました。
クモハ40074は一般公開イベントで度々姿を現していました。

(大宮総合車両センター・2003年5月31日)
[2005(平成17)年]
2005(平成17)年の一般公開時には山手線のサボを入れて展示されていました。

(大宮総合車両センター・2005年5月28日)
[2006(平成18)年]
クモハ40074に対してあまり姿を見せなかったクモハ40054ですが、ある日大宮総合車両センターの解体線にいるのを見つけて焦った記憶があります。

(大宮総合車両センター・2006年11月12日)
[2007(平成19)年]
去就が心配だったクモハ40054でしたが、青梅鉄道公園で保存されることが決まり、2007(平成19)年5月から公開されました。

(青梅鉄道公園・2007年12月2日)
旧型国電の平妻貫通型車両の保存は非常に貴重だと思います。
そしてクモハ40074は鉄道博物館で保存されることになりました。

(鉄道博物館・2007年11月11日)
かつての中央線を再現したものと思われますが、ホームなどが邪魔をするのは残念。でも車内に入れますが。
現在は首都圏でのみ見ることができる40系ですが、どちらも末永く保存されそうでなによりです。