おだわらぐらし -198ページ目

おだわらぐらし

縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

では 旧朝倉家住宅のお庭を歩いてみましょう。

↑庭は元々はとても広かったそうです。今マンション「ヒルサイドテラス」の敷地内になっている猿楽塚(古墳)も 庭の一部だったらしい。(館内で見たMAPには_更にその西 現在デンマーク大使館が入る建屋のある場所あたりには 朝倉家が生業としていた米屋(←虎治郎さん、経営は弟さんに任せていたそう)の 精米工場や従業員の住宅などが描かれていました。)

↓リーフレットの順路。


↓母屋玄関の南側にある 庭への門。

↓敷かれた石が 散策者を奥へといざないます。

(本来ここは「崖線」という地形の上で 富士山が見えた という程眺めが良い場所のはずですのに・・・ 庭樹が育ち過ぎてるんでしょうかね 暗い です_)

↓「応接間」前に出ました。



↓その西 二階屋(の一階部分)が「第一会議室」ですね?


順路に従うと崖地を下りて行く事になり 結構高低差のある小径を歩かなくてはならないので オナマケ をして・・・

(ルートを逆回りして_)
「杉の間」の前に出ました。

(↑角の杉の間、
 ↓表の杉の間。)



↓「表の杉の間」から奥を見たところ_。


杉の間の裏手(西側)へ回ります。

↓茶室の向こうに 「関東大震災で漆喰が剥がれ落ちたのでコンクリート製にした」という二階建ての土蔵。



茶室の裏手辺りにだったでしょうか 手水鉢がありました。

↓これは角の杉の間前の 手水鉢。


第一会議場前に出ます。

↓ややほっそりとした石灯籠。



↓角の杉の間を東側から見たところ_。

↓応接間前。

↓ここにはどっしりと 大きな石灯籠。

(ルート通りには歩いていませんが)建屋周辺をくるりと歩いて、これで (簡略に^^;)お庭拝見 を終えました。

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さて、これは_ 実は庭の門の「外」の石灯籠です。


↑石灯籠はあちこちに置かれていましたが、 もしかしたら これが一番大きな石灯籠、になる のかな?
ちょっと面白い設置の仕方、のように思いました。

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旧朝倉家住宅の見学を終えて 敷地を出ました。

(↑門柱を裏から見たところ_)
↓門の向かいには お地蔵さん達がいました。



↑説明板「地蔵・道しるべ
 地蔵尊が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに立てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。
 この地蔵尊は、文政元年(1818)の造立で、その台座正面には、「右 大山道、南無阿弥陀仏、左 祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂または暗やみ坂といい、この坂を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道246号線)に達します。また、堂前を東へ進むと並木橋に達します。
 江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう。
   渋谷区教育委員会 」

で、このお地蔵さんと旧朝倉家住宅の間の坂(目切坂)を少し下ると_





↑「目黒元富士跡」という説明板がありました。
元富士って・・・何でしょう?

読んでみます。
「江戸時代に、富士山を崇拝大将とした民間信仰が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
 マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を
元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二(フジ)」、「目黒新冨士(フジ)」としてそれぞれの風景が描かれています。
 元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移されました。
  平成22年12月
   目黒区教育委員会 」
(全然関係ないけど ここは渋谷区と目黒区の境、なんですね?)

時に_元富士があったというこの場所(現-KINGHOMES DAIKANYAMA というマンション)には_
Wikiによると、明治11年(1878)に岩倉具視が別邸を建てています。(塚の上の祠が神社へ移されたのはその時だったよう。)
建屋は後に根津嘉一郎邸となり、その改築時(昭和14年/1939)に塚が取り除かれた~そうです。

朝倉家の向かいが、岩倉さんだったり、根津さんだったりしたのかと思うと 結構「へぇ~」ですよね。
話がそれましたが、「目黒元富士跡」というプレートで ですが、 今は見る事が難しくなった富士山がなんとなく 見える気持ちになりました。できたら「もういっちょ」ここに広重の「目黒元不二」の絵をパネルにして貼ってもらえないでしょうかねー。

この後は 目切坂を下りて 上目黒でお昼を食べました。/ つづく