おだわらぐらし -131ページ目

おだわらぐらし

縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

以前(10/08にUPした話)、 
折角すぐ近くまで行きながら 「どこらへんが?」なオトボケ写真しか撮れてなかったところの、「小田原用水 板橋の分水ポイント」_


ちゃんとわかるように 撮り直して参りました。

↑国道一号線の「上板橋」交差点付近のMAP。
↓登山鉄道の緑の鉄橋が一号線を斜めに渡っています。

(↑板橋駅側(東)から 上板橋方向(西)を見るー)
↓その先_鉄橋が、二本ある水路のうち 南側の水路の上を渡るポイント。

↑手前が「暗渠」。水は奥に向かって流れています。
↓鉄橋の橋脚の左右を挟むように 二本の用水路。

(↑左が 北側の用水路、右が 南側の用水路、です。)

↑北側の用水路の暗渠の上から、
↓川下方向を見たところ。

↓一号線を 早川側に渡ります。

(↑この 国道の下を 二本の用水路が流れている、のです。)

↑渡ったところ。
↓柵から下を覗くと 用水路が見えます。

↑今見えているのは 「南側の用水路」です。
↓少し進むと 二本の用水路の分岐点が 見られます。


↑おわかり頂けるでしょうか?
↓北側の用水路も見てみましょう。(フェンスのところまで戻っています。)

↓(10/8のブログに貼った絵)


↑この とんがり部分 が「背割り」と呼ばれる分水工です。(ここが水の分岐点)
↓先端(川上側)から見たところ。



(↑左が北側の用水路、右が南側の用水路、です。)

↓動画で。



↓二つ穴の水門、裏側。(増水時には この水門のある堤が 川の水から小田原の街を守る事になるのでしょう。)


小田原用水は ここから引き込まれているんですね?

(↑堤の上、水門を横から見たところ_)

↓堤の縁に説明板がありました。/写します。

↑「小田原用水(早川上水)取入口
 小田原用水(早川上水)はこの地で早川の川水を取り入れ、板橋村は旧東海道の人家の北側を通水し、板橋見付(イタバシミツケ)から旧東海道を東に流水して古新宿(コシンシク)を通り、江戸口見付門外蓮池に流れ出たもので、途中の所々で分水されて小田原城下領民の飲料水に供されていたものである。
 この古水道は小田原北条氏時代に施設されたものと思考され、我が国の水道施設の中では初期の頃の水道と思われる。江戸時代になっても利用され、城下17町の飲料水として利用されていた。
 その後上水道から下水道へと姿をかえ、昭和31年市内電車の軌道撤去による国道の大改修によって面目を新たにした。
 なお、近年道路工事中に、江戸時代のものと思われる分水木管が発見され、その一部が市立郷土文化館に保管されている。」

水門の向こうの石碑も見てみましょう。

↑あれ? あ 裏だった。
↓表へ回って~ 改めて、頌徳碑(ショウトクヒ)。 


↑「市川文次郎
君は 天保13年(1842)壬寅3月 相州足柄下郡大窪村板橋に生る 資性温柔和平 志操篤実方正 夙に(ツトニ)闔村(コウソン)の信望を得て明治6年村の戸長(≒村長)となる 爾来時移り世変れども大窪村に長たる実に三十星霜 恪勤精励(カッキンセイレイ) 名声隆々 終始一貫 公共の職務に鞅掌(オウショウ)す 当時の村民咸(コトゴトク)悦服(エップク)し 且つ其の功労を称せざるはなし 特に板橋小田原灌漑用水並に箱根芦ノ湖水問題処理(?)の如きは其の功績の顕著なるもの 由来用水の利害は遠く箱根の諸部落に繋はり(かかわり?) 紛糾葛藤至難の問題たり 然も(シカレドモ)君東奔西走以て善断し 次で板橋小田原両所間の分水及び早川深良(フカラ)両推水利組合の処理も亦円満に解決し 以て今日の利潤を享(ウ)くるに至れるは 全く君が尽瘁(ジンスイ)の賜なりと謂うを得べし 同問題紛糾解決の直後即ち明治36年10月郡会議員に当選 同40年2月16日不幸病に罹りて歿す 享年六十有六 今や歳月空しく流れて30年 村内に潺湲(センカン)として流るる疎水は幾多の人に利便を与えて君が名声と倶(トモ)に不朽に伝はらんとす 其の功績や亦偉なる哉 茲(ココ)に有志相胥りて(←何て読むのかな?) 碑に刻し 以て永久に其の遺徳を勒せんと云爾(ウンジ)
 昭和8年10月22日
衆議院議員従四位勲三等鈴木英雄(←小田原市 二代目の市長さんです) 撰文
神奈川県知事従四位勲二等横山助成 篆(?)額 」

<+>
・上の文中の「板橋小田原両所間の分水」は Wikiによると_明治21年(1888)に起きた、当時、上水の上流側にあった板橋村と、下流側にあった小田原町との間で上水の水利権を巡る争い、だそうです。「話し合いで解決」したそうですが 具体的に知りたいなあ・・・。
・更に 芦ノ湖の水の権利が静岡県の深良と神奈川県の早川間で争われた時も この方が村長さんだった時、なんですね?(因みにこの件は裁判になり静岡県側が勝利。今も芦ノ湖の水は静岡県のもの、です_。)
・大変なご苦労があった事でしょう。お疲れ様でした。そして ご尽力に感謝。

↓もういっちょ、碑文の右手も見てみましょう。

↑「板橋水路委員」のお名前が並んでいます。筆頭は「内野勘右衛門」_あ、内野醤油の御店主さんだ。/ 続く仝(ドウ=同)の皆さんのお名前も記しておきましょう。_ 稲子善七、二見彦兵衛、伴野徳兵衛、徳兵衛 (当時は 徳兵衛ってお名前が流行ってたのかしら?)

水門横の石段を下り、二つ並んだ取水口を正面から見たところ。

↓余剰の水を川に戻す水路(←多分。歩いた訳じゃないのでわかりませんが・・・)側から見た 水門。


動画で。
↓二つ穴の水門を 早川側から見ています。

↑動画は 余剰の水を川に返す水路、から始まって 水門を見、最後は 川上、早川からの水の引き込み口の方向を向いて 終わっています。


小田原用水に 又一つ 詳しくなれた気がします^^)

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<とりびあー>
交差点近くに立てられている 観光客に向けてのアピり看板。
今まで特に何とも思わず眺めていましたがー よく見たら、

↑箱根方向へ向かう「下り線」側は「城・山・緑」で、
↓小田原の街中へ向かう「上り線」側は「城・海・光」になってました。

そうだったのかー。