北口本宮冨士浅間神社(キタグチホングウ フジセンゲンジンジャ) | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

富士本栖湖リゾートで芝桜を見た帰り_

北口本宮士浅間神社へ寄りました。

(鳥居前の道は「国道413号線」、昔の鎌倉往還です。)
第一鳥居の扁額には「士山」の文字。

(↑こちらのの字は「ウ冠」ではなく「ワ冠」、上に点の無いタイプ、です。)

参道を進むと丹塗りの第二鳥居が見えてきます。

禊川手前に「世界遺産」のプレート。


神社単体ではなく「信仰の対象と芸術の源泉 富士山」の一部として 世界遺産に登録されている んですねー。

禊川は南東から北西へ勢いよく流れていました。

(↑間掘川から引いた水でしょうか?)

改めての大鳥居。


↑鳥居の扁額には 富士山を意味する「三國㐧一山」の文字。

脇に百度石。

その向こうに福地(フヂ)八幡社)があったようですが・・・ 気づきませんでした。(+ 福地と書いて フヂ ・・・。ややこしいことに富士宮の福地神社はフクチジンジャだそうです。)

(↑右端の半分切れているのが八幡社_スミマセン)
何でも 「福地(フヂ/地元には富士山(フジサン)は元々福地山(フヂサン)と書いたという言い伝えが)」 や 「富知(フクチ/富士宮の浅間大社の社地の地主神)」 は 古代の富士・浅間信仰と深い繋がりがあるそうで~、 ちゃんと拝見するのだった と帰ってから思った次第。 

(↑グーグルからもらった福地八幡社)

随神門へ。




↑んー? 扁額の文字 読めません^^;)(あ、もしかして「冨嶽」?)
↓その奥の絵馬も 何が描かれているのかな?

↓左右の随神さん達。


(↑時に、この随神さん達は近年作り直されたもの。元の、「アラハバキ」という別名をもつ随神さん達は 富士吉田市の指定文化財となり、ミュージアムに収蔵されている~ そうです ⇒

門を抜けると 正面に神楽殿。




左手(東)に手水舎が現れました。

立派な造りです。



(↑どこかガーゴイル(←彫刻つき雨樋)を思わせる垂木や木鼻。)





↑説明板。
「重要文化財 手水舎
  平成29年11月28日指定
延享二年(1745)の建立と棟札にある。木鼻に施された龍や獅子といった彫刻類の多さや、富士山の溶岩から削りだされた巨大な水盤石など、村上光清(←富士講の最盛期を作った人) ら富士講中による大修理の集大成となる境内随一の装飾性に富む建物である。
水盤石に建つ青銅の龍の口からは、富士山信仰の霊場であり富士八海の一つとして数えられた「泉瑞(センズイ)から引き込んだ霊水が、現在も絶え間なく流れ出ている。」

では神楽殿の向こう(南)の本殿へ。

で この本殿が 又 素晴らしかったー。







ご挨拶しましょう。
こちらの主祭神は 富士山の女神-木花開耶姫命。更にその夫-瓊瓊杵尊、木花開耶姫の父神-大山祇神も併せて祀られています。
(因みに 浅間神社の御神体は正面奥の富士山そのもの、です)

・・・と、、、 あれ?


天狗と烏天狗?

(↑富士講と天狗には何か関係が???)
↓拝殿奥の額。


時に 由緒書を見つけられなかったのだけど・・・ どこにあったのでしょう?/HPやWikiから適当にまとめて打つと_

こちらは 信仰の山-富士山への 北の登山口(吉田口)を守る神社です。

創建は古く、社伝によると 第十二代-景行天皇の40年(AD110?)、日本武尊がこの地の大塚丘(←神社の300m程南西にある小丘)から富士山を遥拝された折 「富士の神山は北方より登拝せよ」と仰せになり そこに鳥居を建てさせられた~ のがはじめ。
更に(その10年後) 景行天皇の50年(120?)、(大塚丘に)祠が建てられたそうです。
一時寂れた時期もあったようですが、江戸時代中期に富士講が盛んになって 富士信仰の一大拠点となり、社殿も美々しく建て替えられたようです。

江戸時代には「浅間大菩薩」「富士浅間明神」と呼ばれる 神仏習合の宗教施設で、 境内には (仏教系の)仁王門 鐘楼 三重塔などもあった といいます。

明治になって「冨士山北口本宮冨士嶽神社」に改称。(そして 仏教系建造物は撤去_) 現在の「北口本宮冨士浅間神社」の社号になったのは戦後(1946年)だそうです。


社殿とその周辺、もっと見せて頂きましょう。

(↑女神様の拝殿にふさわしい繊細で華やかな彫刻があちこちに~)
↓絵馬掛があった。


(↑色んな種類がー。言葉も色々ー。/皆さんの願い みんな叶いますように^^)

拝殿の東には_

社務所がありました。

↑扉に「吉田の火祭」のポスター。

拝殿裏へ回ろうとすると_ 見た事の無い形の美しい灯籠がありました。


↓説明板。

↑富士講の布教に尽力した村上光清(コウセイ)が代表を務めた講「村上光清同行」所属の「谷村(ヤムラ)上町講中」が奉納した灯籠、だそうです。(社殿西側にも 対になる灯籠が建てられています。)

そのそばの「七色もみじ」。

「このもみじは春の芽吹く頃に鮮やかな色彩を放つ」だそう。


↑なるほどー。ほわり と優しい「春のもみじ」ですねー。

南に「東宮(ヒガシノミヤ)本殿」。




主祭神-木花開耶姫と その夫-瓊瓊杵尊の子、_山幸こと「天津日高(アマツヒコ)彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト←初代天皇-神武天皇の祖父)」が祀られていました。



↑懸魚の上に卍(マンジ)。これはお寺のマーク~ ではなく村上光清の講の印 との事。

拝殿の裏、神殿部分を回ります。

神殿背面に「恵毘壽(エビス)社」がついて(?)ました。


↑あら、恵毘壽~ といいながら 祀られているのは 大国さんと事代主さん「親子」の福の神さんです。
↓説明板。


又行くと_

↑先程の「東宮」と対になっている「西宮(ニシノミヤ)」がありました。↓



↓説明板。

↑こちらの祭神は_
天照大神(アマテラスオオミカミ) 豊受大神(トヨウケオオカミ) 琴平神(コトヒラノカミ)、との事。

西宮の先_ 南側に鳥居が見えました。

これが 富士への登山口です。

右手の石には「富士北口登山本道」と刻まれています。

鳥居の扁額の文字は「冨士山」。


鳥居を潜った先には「祖霊社」。

参道右手に案内図。

↑250m程行ったところに 神社のそもそも である「大塚丘社」。(←現在ここには日本武尊が祀られているといいます)/ 江戸時代の富士参拝者は、北口から霊峰富士山を目指し、帰りは南側へ下って富士宮の浅間大社へお参りした~ そうです。(すごいなー・・・)

境内へ引き返します。

境内の縁には 講の指導者さんの像やー


_末社が並んでいました。



登山口方向(南)を振り返って見たところ_。


さてその先(北西方向)に_


摂社_諏訪社 がありました。

(↑割り拝殿の奥が本殿。↓)

_諏訪社は この地の地主神と伝わるー そうです。(明治になって「摂社」となっています。)

割り拝殿に飾られていた神輿。


↑紋は女神のシンボル 桜。
↓こちらは 富士山を模ったお神輿です。

↓吉田に夏の終わりを告げる「火祭り(鎮火大祭)」の様子。


↑お神輿も描かれています!

すごいなー吉田の火祭り。今年も例年通り8/26+27に開催されるそうです。(一度見てみたいものだけど 暑そう・・・)


境内ではこの他_... 沢山の木々を見ました。



↑これは「冨士夫婦桧」、
↓こちらは「冨士太郎杉」。



↑この 根方の どこか富士山っぽいところも イイ ですよねー。
↓次郎杉 もいました。

↓そのそばに夫婦梅。


もっと見所があったのかもしれませんが、 陽も陰りかけており 駆け足参拝してしまいましたー。


帰り道_。

↑北の奥に「第一鳥居」がチラと...。

_おしまい。



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富士信仰、浅間神社、講... 色々むつかしいですね。/ 理解を深めるためには やはり総本山、富士宮の「浅間大社」に行かねばー。