秦野の宝蓮寺 大日堂 | (又)おだわらぐらし はじめました

(又)おだわらぐらし はじめました

 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

菜の花台からの帰り、大日堂に寄ってみました。

堂前の枝垂れはもう葉が出ており 周囲の桜も花を 撒くように散らしていましたが、それも又風情があり 良うございました。

↓屋根の経の巻きの下には葵の紋。その下には火伏でしょう波を描いた瓦が置かれています。

(大山一帯は慶長年間に家康によって「寺社統制」が行われたといいます。葵の紋はここも幕府の指導庇護の下にあった事を示しているのでしょうか?)
↓改めて見るお堂は 丹塗りの柱 彩色を施された彫刻、なかなか 華やかです。




(↑扁額の文字「金剛王殿」。金剛界の大日様を祀るお堂の意味でしょうね。)
↓説明板。

宝蓮寺 大日堂及び諸堂
 宝蓮寺丹沢山の登山口及び大山の参道入口としての要所に位置し、金目川(カナメガワ)に沿った山間の山岳修験信仰の霊場としてふさわしい場所にある。大日堂は別当寺院で 臨済宗鎌倉建長寺の末寺で、開山は仏国応供廣濟国師(←後嵯峨天皇の第二皇子。13世紀の僧)、本尊は仏頂尊(大日如来)である。

大日堂
 縁起には天平14年(742)聖武天皇の勅願所として造営されたとある。本尊は金剛界五智如来像で平安時代後期の作であるが、藤原風の穏やかさはあまりなく眉や目の線とも強さがみられ、特に顎の張った大日如来像の面相には厳しいものが感じられる。平安時代の五智如来像が五体揃っている例は全国的にみても大変少なく非常に貴重な像といえる。(以下略)

そうかー大日堂は単体でここにあるんじゃない、んですねー。(産能大学の「歴史街道ものがたり」によると_ バックには 江戸時代に再編された大山(←権現信仰の山)一帯の宗教者の「清僧」と「妻帯僧 山伏 等々」の身分の区分けや住み分け それによって生じ整えられた御師や講の制度~ と色々あるよう。そしてこの蓑毛は「大山参り」の西の玄関口だった、んだー。)


(堂内をのぞくと 真ん中の大日如来にはライトが当てられており 智拳印を結んで座っておられるのがわかりました。/ が残念ながら両脇の如来はよく見る事ができませんでした・・・できましたら「五智如来」として拝見したいものですー)

大日堂の東奥の階段を上がります。





御嶽神社 です。

御祭神は_倭健命、  大日孁命 (=天照大神)、 宇迦之御魂命 (=お稲荷さん )、 天児屋根命 (≒春日権現)との事。(ただし『神奈川県神社誌』及び『新編相模国風土記稿巻之五十二』の蓑毛村の条、に 「吉野より勧請」「蔵王社」 と載るといいますから 元々は蔵王権現が祀られていたっぽいですね。明治になって 神社に権現様が祀れなくなり 祭神が変わった・・・ のかも?)

屋根の紋は三つ巴。


なお、この神社は 明治の神仏分離令までは大日堂の鎮守社だったそうです。

隣の不動堂。(横のプレートでは「閻魔堂(十王堂)」になってますね。でも中には火炎をしょったお不動さんがおられました。/プレートは「湯茶殿」に置かれるべきものだったのかな、と。)


説明板によると_
「不動堂
縁起には7世紀の頃、朝鮮半島からの渡来人である秦氏(ハタシ)がその守り本尊である不動明王像を祀った(?) のが始まりとされ、後に五大尊(不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王)を祀ったものとされている。現在は、江戸時代の作と推定される不動明王像が祀られている。」との事。

茶湯殿(チャトウデン)へ。




(↑額の字・・・読めず)


木造十王像
 茶湯殿には、本尊の地蔵菩薩と等身大の十王像・奪衣婆(ダツエバ)・倶生神(グショウシン)・鬼卒(キソツ)及び人頭杖(ジントウジョウ)・兄弟など冥界の一具が一堂に安置されています。
 地蔵菩薩像には正徳五年(1715)、十王像には享保六年(1721)の墨書銘が残っており、十王像には江戸神田の大仏師左近の銘も記されています。
 神奈川県内でも十王像は数多く残されていますが、等身以上の作例は希少です、作風は、やや粗い彫技が独特の迫力を生んでいます。近世期における十王信仰の記念的遺作として高い価値が認められます。

下の説明板の文も写します_

茶湯殿
 縁起には正長(ショウチョウ)元年(1248)一輪和尚によって建立されたとある。死後冥界で飢えと渇きに苦しむ亡者を救い、成仏への力を与える湯茶供養の寺として知られている。堂内には、江戸時代の作である地蔵菩薩像、十王像当地蔵十王経にのっとった冥界の一具がすべて揃っている。絵画では見られるが、彫刻でこれだけ大きい像はその例からない。

茶湯殿横の座像はお地蔵様かなと思いましたが・・・


↑手が四本ありますね?もしかしたら もとは六臂だったかも? 片膝を立てているところも(六臂の像が多い)如意輪観音風ですし・・・?(台には「供養塔」の文字)

仁王門へ向かいます。


(駐車場から大日堂前に出たので 仁王門を見損ねていたのです_)


表へ回ります。


(↑道路からは こんな感じに見えます。)


両の室を覗くとー


荒々しくも ちょっと可愛らしい力士さん達がおいででした。
↓説明板。

木造二王立像
 本二王像は、蓑毛大日堂仁王門の左右に安置される阿吽一対の像であり、向かって右に阿形、左に吽形を配する。両像とも寄木造り、彫眼で彩色を施しており、上半身は裸形で下半身に裳をつける。
 作風は鎌倉期の慶派系のような力強い二王以前の穏やかさが見られ、制作が平安後期に遡ることを示す。面貌には藤原期彫刻としては強い表情が見られることから、制作時期は十二世紀半ば頃と推察される。
 平安期に遡る作例としては、県下においても現存最古の本格的作例といえ、東国の遺例としても福島県法用寺などに続く古像ということができ、その存在は彫刻史上極めて重要である。 へー。

門から改めて見る大日堂。


良いお参り処です。



さて、仁王門の(道を渡った)向かいに_



「蓑毛山 寶蓮寺」がありました。(山号は何と読むのでしょう?)/ 大日堂を管理しているお寺、ですね?

参道を行きます。

↑石柱に「寶蓮禅寺」。(ネットによると 通称「茶湯寺」だそう)
↓右手に六地蔵。


↓左手に掲示板。

川の向こうに本堂(多分)が見えましたが 観光客が訪ねてよいお寺ではなさそうに思え・・・ ここでおいとましました_。



<おまけ>
仁王門の東の蓑毛橋。

春岳(ハルタケ)沢(金目川系)を東に渡ったところに_誰かが立っています?


「東京少年 キャンプ連合 発祥の地」ですって。(北村西望「将軍の孫」が ちょっと成長した姿~ かと^^;)/ キャンプ連合~ というのは 少年団運動の先駆的存在の団体で これはその初代会長 日野鶴吉先生 を顕彰する碑、だそうです。

色々あれこれ  秦野に「1」詳しくなれたかな?/ おしまい。(撮影日 4/3-月)