金櫻(カナザクラ)神社 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

昇仙峡のロープウェー乗り場前で ほうとうを食べた後訪ねたのは、昇仙峡の奥に鎮座する金櫻(カナザクラ)神社

こちらは長野との県境にそびえる金峰山(キンプサン/キンポウザン 又の名-甲州御岳山とも)を御神体とした神社で、 「本宮」もそちらにあるそうです。(_つまり ここは「里宮」になるんですね。)



鳥居手前の社号票には「御嶽山金櫻神社」の文字。

(↑「御嶽山」は本宮のある金峰山の別名。) 

参道の先に手水舎。

吐水口は龍。



由緒書。

「金櫻神社略記
 約二千年前、第十代崇神天皇の御代に全国各地に疫病が蔓延し悲惨をきわめた折、甲斐の国に於いては当神社より北方三十キロ標高二、五九五メートル金峰山五丈岩に御神少彦名命の医薬禁厭の守護神を鎮祭されたのが当神社の起源です。
 その後、第十二代景行天皇の御代には、日本武尊が東国巡行の際に国土開発のため須佐之男命、大己貴命をあわせ祀られました。
 今から千五百年前、第二十二代雄略天皇の御代に金峰山本宮と富士山が遥拝できるこの地に里宮が開かれました。第四十二代文武天皇の御代には大和の国の金峰山より魔障を除く仏、蔵王権現が祀られ神仏習合の日本三御嶽、三大霊場として広く信仰され東国の名社として関東全域、遠くは越後 佐渡 信濃 駿河の各地に及び 春秋配礼(?)はことに賑わいました。
 領主武将の信仰も厚く寄進された室町鎌倉期の文化の粋を結集した絢爛華麗な社殿や幾多の宝物は壮観をきわめました。明治の御代を迎え当社は神仏分離により神社として独立、大正五年県社に昇格 広範な社有林と昇仙峡の清流に囲まれた神域は幾世隔てた今日も変わらず清新であり全国から参拝される人々の信仰の地となっております。
  令和元年五月一日 金櫻神社」

さて、手水舎の先からは 石段が 長く 長く続いていて・・・

上るのが大変そうだったので、(鳥居の左手にも案内があるとおり「車で1分」の) 本殿すぐ脇の専用駐車場まで車で上がりましたー。

↓という訳で いきなりですが 本殿です。(駐車場のすぐ横に本殿が建っているんですねー)

↓玉垣の中には 桜の木。

↓「御神木 金櫻(カナザクラ)」_。

↑鬱金桜(ウコンザクラ)、ですって。(+札によると「初代 金櫻は日本武尊がお手植えしたものです」との事。)

で、この桜が 社名の「金櫻」の由来、なんですね?

↓説明版。

「神木「鬱金(ウコン)の桜」
 創祀二千年と云う古い歴史をもつ当神社が里宮として約千五百年前に此の御岳の里に祀られてより神仏習合時代に入り、役の行者小角(オヅヌ)の「以為神(かねをもってかみとなし) 以為霊(さくらをもってれいとなす)」と云う託宣より「金の成る木の金櫻」として崇められたと云う  景行天皇の御代 日本武尊が植えられた桜をも謂う  「うこん」とは上古の向井より皇(ミカド)のお召し物の色とされこの染料となる植物より此の名がつけられたものと考えられる  大阪造幣厰地内に「御衣黄」と云われる桜が此の桜に酷似しているがおそらく此の由来に起因するものだろう
 現在この神木は六~七代目とも云われ 四月下旬から五月上旬黄金の大輪の花をつける
 此の季節この桜を拝み水晶の守りをうけると一生涯金運に恵まれ厄難解除のご神徳をもうけられるものと全国各地からの参拝者で賑わっております」
(↑「、」も「。」もないので どこで切れるのかわかりにくく・・・ 私が勝手に「(空白)」を入れた文です。切り方間違っているかもしれません。)))

右側には「昇・降竜」についての説明もありました。
「昇・降竜記
 当金櫻神社には初代左甚五郎作と伝えられる昇・降竜が奉納されており、鎌倉時代の社殿と共に全国に其の名を知られてまいりました
 昭和三十年の大火により全てこれを焼失して以来各方面からこれを惜しみ再現復活が要望されてまいりました
 昭和五十五年ご神縁により東京銀座祝橋診療所 吉河孝雄医博により日展会友堀友二氏に制作依頼され同五十八年八月二十七日奉納されました ケヤキ一本作りの全長一メートル七十センチの此の竜は元々水晶の玉を抱いております 当神社の水晶のお守りは深い関係をもっており

 鬼をさる王なれば天魔疫癘の恐れなし
 如意宝珠なれば宝に於いてあきみてり
 国を守る王なれば息災にして天が下治む
 竜王の王なれば水火に於いて自在なり
 天地の鏡なれば萬の事曇りなし
 神符なれば不死不老悪衆不入病なし

の玉依姫命の神託通り強い霊力をもつものと信仰されたものです
 昇仙峡の神秘的な風景と日本三大霊場の此の御岳の里の古い歴史の中の数多い伝説の起源ともなった昇・降竜の由来は 又此の新しい竜の再現によって高いご神徳を遍く 蒙られるものと信ずるものでございます」
(竜の彫刻は 後ほど拝見する事に_)

まずは手を清め、



(↑如来様の池(←明治初年までここは蔵王権現を合祀する神仏習合の宗教施設でした) から湧く神水とのこと。)
_鳥居を潜って社殿の方へ向かいます。



脇に さざれ石。

さざれ石が置かれている神社は多いけど 「落ちそうで落ちない 合格祈願の石」という謳い文句は初めて見ましたー。


拝殿前に舞台が設営されていました。(近く音楽のイベントがあるとかでー)




改めての「由緒書」。

(↑下の 一の鳥居脇のものよりもこちらの方が詳しかったのですが、長いので 全文は画像からお読み頂く事にしてー 下のものには載っていなかった 詳しい御祭神の神名 他を写します。↓)
「日本三御嶽 三大霊場 御嶽山金櫻神社由緒
・御祭神 少彦名命 俗に淡島さま
     大己貴命 俗に大国さま
     須佐之男命 俗に祇園さま
・相殿  日本武尊命 圣(経)営の神、
     櫛稲田媛命 子育て婦徳の神。
(中略)
・神使は白狗と狼 祭神の道案内 交通安全守護
・虫切の鈴 日本三土鈴の一つ
・水晶守 生涯守として金運と厄除け
・日本三御嶽の内、花の御嶽とも云われる」

拝殿へ。

あちこちに桜の意匠。

でもお賽銭箱の紋は五七の桐でした。(なぜかしら?)

鈴と幕の内、にー

神号が記された額。


揮毫は徳川慶喜さんのお父様の斉昭(ナリアキ)さんとの事。(へー)


ご挨拶の後、お神輿を拝見。



(↑へー「六十年に一度斎行され」る「金峰山の本宮から神様を降臨し 輿に乗せて里宮の金櫻神社に運び本殿に鎮め祀る」「御縁年祭」というお祭りに使われるお神輿ですって!)

(↑五七の桐、三つ巴、が見えます。(桜以外の)これらの紋はどこから?神仏習合時代の庇護者とか でしょうか?)

境内図がありました。

↑本殿脇の「昇龍 降龍」の位置が記されています。/ 見に行ってみましょう。

本殿は瑞垣の内なので ちょっと見にくいのですが・・・

垣の隙間から覗くと~

あ、いましたー

柱を降りる「降龍」。

そして反対側にはー




↑柱を昇る「昇龍」。

神殿横には 井戸もありました。



↑「龍神の井戸(龍神=雨乞いの神)
今から千五百年まえ、金櫻神社里宮が建てられた時からの井戸で古くから水が枯れる事なく今に至っています。
その昔は、この御神水を汲み上げ餅をつくなど神事で使われていました。また夜になると龍が降りては水を飲んだと言われ龍神を信仰されている方には、その姿が見えるようです。
心清らかなる人が汲み上げた時は水が澄み、心貧しき人の場合は濁るとも伝えられています。」 だそうです。

一の鳥居への降り口_。

石段の下に 立派な彫刻の施された柱が見えました。

境内図によると あれも「昇・降龍」だそう。 行ってみましょう。

こっちが昇龍。

するとこっちが降龍ですね?

(顔はどこでしょう?^^;)

一段降りた所に赤い屋根の建屋がありました。

↑手前にはトイレが作られていましたが、
↓奥に抜けられ~


(↑中は備品置き場、のようでした)
↓谷側を見下ろす事ができました。


元々は麓から歩いてお参りに来た参拝者のための休憩所、とか だったのでしょうか?

勢いで(?)もう少し降りてみる事に。


池(境内図によると「竜神池」)の隣に稲荷社があります。




↑社を守るのは「八尾の狐」。(境内図によると「悪さをして一本尻尾を切り取られたと言われている」との事・・・)
↓尚 稲荷社の左は水神社、右は秋葉社、だそうです。

稲荷社の中には、

巻物を咥えた狐と玉を咥えた狐がー。


龍神池を渡って尚降りると・・・

一の鳥居前に出そうだったので、

ここで引き返す事にしました。

時に、この参道付近は杉の大木が多く、


中には注連縄を巻かれた御神木と思しき物も_。

尚、近くにあった説明版によると、

↑周辺の杉群の 「このうち七本が市指定の天然記念物」 との事でした。

石段を上がって参ります。


ああ、やはり神社は 下から上がっていくべき、ですねー。


(↑石段を下りる時は気づかなかった狛犬達の表情も よく見る事ができますし。)
(↓昇龍+降龍にも 改めて「こんにちは」)


ありがとうございました。


_おしまい。

お天気は今二つのこの日、でしたが、
この後は 川沿いの道を下って県営の無料駐車場に車を置き、昇仙峡の遊歩道を歩く事に~。