丹塗りの大鳥居の扁額には「三国第一山」の文字。
この鳥居は昭和49年12月9日に再建されたもの、だそう。横に記念碑が立てられていました。
(↑石碑の土台は「旧大鳥居礎石」ですって。)
↓杉並木。(立派!)
参道を進みます。
↓途中「波多志神社」という小社がありました。(この神社の初代 祝(ハフリ)-伴直真貞(トモノアタイ マサダ)の霊を祀っているそうです。+ 富士周辺には「徐福伝説」が残っており、波多志(ハタシ)は、秦氏(ハタシ/徐福の子孫)をさす、という説もあるようですね。)
↓手水舎。
(↑最近滴る式に改造された~みたいですね?)
↓門の手前の灯籠の火袋の窓には神紋-桜。笠の裏に「大社」の文字。(河口浅間神社は『延喜式神名帳』に「名神(ミョウジン)大社」として載る古社なんですねー)
随神門。
その横に社務所。
門にいらっしゃった随身の装束の随神さん達。
(↑年長者が格上の黒、若者が格下の赤の装束である事が多いのだけど こちらは逆でしたー。ま そういう例 実際にはありますよね 50代だった菅原道真が右大臣だった時の左大臣が 当時まだ20代だった藤原時平~とか。)
↓門を潜ります。
奥に立派な拝殿が見えてきた。
手前左に神馬舎。
中にー
神馬像。
右手に一際大きな杉。
御神木のようですね?
へー「七本杉」_御神木が七本もあるんだ。
御神木であると同時に県指定の天然記念物でもある七本の杉には 一本一本名前もついている、そうなー。/ ↑尚、この説明板の後ろに立つのは「一号 御爾(ミシルシ)杉/又の名を 母衣懸(ホロカケ)杉」ですって。
拝殿に向かいます。
重厚で厳かな雰囲気が漂ってます_。
(↓鈴の紐はからげられてました。)
(↑手前の額には「三國第一山」、その下に右元左末の注連縄。)
(↑中の額には「鎮爆」、白い幕に型染の桜。)
(↑奥の額には「鎮國」、幕には桜が白く染め抜かれています。/ その更に奥の本殿正面には 醍醐天皇御宸筆 という「大元霊(オオモトダマ)」の額がある、そうです。←神社リーフレットによる)
↓脇の部屋に下がっていた大提灯には「延喜式内 名神大社 浅間神社」の文字と 染め抜きの桜の紋。)
神社の由緒書を撮り忘れたので 頂いたリーフレットから写しますー
「御祭神- 浅間大神(アサマオオカミ)(木花開耶姫命)
御由緒- 人皇第五十六代 清和天皇の御宇(ギョウ)、貞観(ジョウガン)六年(864)五月 富士山大噴火の事あり、富士山北面に在った大湖、剗ノ海(セノウミ)(元青木ヶ原流域)埋没す。この様な大噴火の為、時の住民は甚大な災害を被く。此の事、甲斐の国司、橘ノ末茂(スエモ)公より朝廷に奏上、翌 貞観七年(865)十二月九日丙辰(ヒノエタツ)の勅令により、富士山の神、浅間明神を此の地に奉斎、擬(ギ)の大領(ダイリョウ)-無位 伴直真貞(トモノアタイ マサダ)公を祝(ハフリ)に、同郡の人 伴秋吉公を禰宜(ネギ)に任じ、富士山噴火の鎮祭を行う、 これ当神社の御創祀である、延喜の制により名神大社に列せられる。
平成二十五年六月二十六日、富士山世界遺産の構成資産となる。(国指定史跡)」
社殿についても説明板を見落としておりまして・・・ Wikiから写しますと_
「現在の本殿は、慶長11年(1606年)の焼失により、翌慶長12年(1607年)に領主の鳥居成次が再建したものという。一間社流造で、唐破風付の向拝を備える。昭和40年(1965年)に解体修理が施された。富士河口湖町指定有形文化財に指定されている。」だそうです。
社殿手前の柵の中には・・・
小さな石の祠がありました。
これは「美麗石(ヒヒライシ / ヒイライシ)」と言って_
「浅間明神を祀った古代祭祀の石閣の残欠 / 三代実録 貞観7年12月9日の条後文 ”彩色美麗不可勝言望請祭預官社従之” 【読み下し】石をもって造り構え色どりよりうるわしく言葉でいいあらわされぬ程、甲斐の国司願い出官社に加えていただき斎祭した」 ~ だそうです。
社殿の周囲を回ります。
(↑女神様のいらっしゃる神殿部。華やかです。)
その他_
拝殿の北西には合祀社。
神殿の南東エリアにー
↓諏訪社、
↓山神社、
↓出雲社が。
そして 御神木の杉達_。
(↑諏訪社横の 5号・6号 両柱(フタハシラ)杉)
(↑諏訪社後ろの 7号 天壌(テンジョウ)杉/又の名 御柱。)
(↓出雲社前の 2号 産射(ウブヤ)杉・3号 齢鶴(レイカク)杉・4号 神綿(シンメン)杉。)
(↓池越しに 1号 御爾(ミシルシ)をもう一度見てます。)
ありがとうございました。
良いお参り処でした_。
(↑大鳥居から駐車場の方へ戻っております。)
そろそろ 一日目の宿へ向かいます。/ つづく