今の自分に何が出来るか


何がしたいか


病以外の、何に縛られるでもなく


行動さえすれば、それは自由


できれば、



まだもうすこし体調がいい頃


ふつうに家事や 掃除なんかもしてた


買い物だって 自分のことは自分で そんなの当たり前のこと


当たり前を当たり前に いま出来ないことが 悔しい


それを 見過ごすことに ストレスを感じていた




その頃の 僕は 常にイライラしていた


やりたいことがあっても


手を伸ばせば 本来できるはずのことが出来ないことに


無性に 何かをしたくても


それを行うための 初歩の初歩 


歩くだとか


人と会話をする だとか


ベッドから立ち上がって、ご飯の支度をして、


外に出かける準備をして、


駅に向かって電車に乗ってバスを乗り継いで


目的の やりたいことに向かうことも


今では てんで 出来なくなった



人と会話をする


そこにネックはない


ただ 話す人が激減したというだけ


相手に気を使わせてしまうことが多くなっていった


相手は、その数多くの相手とされる人は、病気のことを知っていても


実際の 実情は何も計り知れない距離にある人ばかりだ



たとえ、このブログを見ていてくれたとしても


実際に対面してからの 僕と


ブログに描かれた僕とでのギャップで


人は、差異を覚えることだろうと思う



見るからに健康そうに見える若者は、目の前にいて


でもブログに綴られた内容の 事柄も いま、目の前にいる人物から発せられていることだと


その違和に 人は いい方にばかり勘違いをしてしまうらしく


目の前で振る舞う、今ある眼前の他人(僕)を先に捉えてしまうらしい



あくまでブログに描かれた内容は、幻想ではないにしろ


どこか別の人の話であるかのように



がん闘病中の人と向き合うつもりできたであろうその人は、


もう、僕と対峙しているときは、僕がガン患者だということを忘れていた、と言っていた。


どんなにマークを付けても


昔からの知り合いで、こんな現状にあっても


やっぱり自らのサイン(示し)が重要になってくるんだろうけど


せっかく、久しぶりに遠方からきてくれた知人であるから、


長く話をしたいと僕も思ってしまって


ついムリをしてしまう


健常でないのに、健常であるかのごとく振る舞ってしまう



相手の行動の節々に


ガンと向き合っていない健常者の僕として捉える視点と


がん患者であるにも係わらず、その相手との今までの距離感や価値観や


取り巻く空気を保つためだけに がんと向き合うことをそのヒトトキだけでも忘れようとしている僕が


まぎれもなくそこにいたことを今では悔いている


結局、それは、相手と別れたあとの僕自身に重くのしかかってくる


相手に合わせたことで強いられる拘束を まるで僕自ら望んでるみたいだ



自問自答?


んーん、自業自得



何も向き合わないでいれたら、そんなの幻想に過ぎないけど


いつもガンを見えない友達として横においておかなきゃいけないとしたら、


とても窮屈だと感じてしまう今こそ


本当はストレスを感じているのかもしれません。