後の月という時分が来ると、
どうも思わずには居られない。
幼い訣とは思うが何分にも忘れることが出来ない。
もはや十年余も過去った昔のことであるから、
細かい事実は多くは覚えて居ないけれど、
心持だけは今なお昨日の如く、
その時の事を考えてると、
全く当時の心持に立ち返って、
涙が留めどなく湧くのである。
悲しくもあり楽しくもありというような状態で、
忘れようと思うこともないではないが、
寧ろ繰返し繰返し考えては、
夢幻的の興味を貪って居る事が多い。
そんな訣から一寸物に書いて置こうか
という気になったのである。
母が永らくぶらぶらして居たから、
市川の親類で僕には縁の従妹になって居る、
民子
という女の児が仕事の手伝やら
母の看護やらに来て居った。
母からいつでも叱られる。
「また民やは政の所へ這入ってるナ。
「また民やは政の所へ這入ってるナ。
コラァさっさと掃除をやってしまえ。
これからは政の読書の邪魔などしてはいけません。
民やは年上の癖に……」
などと頻りに小言を云うけれど、
などと頻りに小言を云うけれど、
その実母も民子をば非常に可愛がって居るのだから、
一向に小言がきかない。
そういう時の母の小言もきまっている。
「お前は手習よか裁縫です。
「お前は手習よか裁縫です。
着物が満足に縫えなくては
女一人前として嫁にゆかれません」
水のように澄みきった秋の空、
日は一間半ばかりの辺に傾いて、
僕等二人が立って居る茄子畑を正面に照り返して居る。
あたり一体にシンとしてまた如何にもハッキリとした景色、
吾等二人は真に画中の人である。
「マア何という好い景色でしょう」
民子もしばらく手をやめて立った。
「まァ民さん、御覧なさい、入日の立派なこと」
民子はいつしか笊を下へ置き、
民子はいつしか笊を下へ置き、
両手を鼻の先に合せて太陽を拝んでいる。
西の方の空は一体に薄紫にぼかした様な色になった。
ひた赤く赤いばかりで光線の出ない太陽が
今その半分を山に埋めかけた処、
僕は民子が一心入日を拝む
しおらしい姿が永く眼に残ってる。
タウコギは末枯れて、
水蕎麦蓼など一番多く繁っている。
都草も黄色く花が見える。
野菊がよろよろと咲いている。
民さんこれ野菊がと僕は吾知らず足を留めたけれど、
民子は聞えないのかさっさと先へゆく。
僕は一寸脇へ物を置いて、野菊の花を一握り採った。
民子は一町ほど先へ行ってから、
民子は一町ほど先へ行ってから、
気がついて振り返るや否や、
あれッと叫んで駆け戻ってきた。
「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」
「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして
「民さんはそんなに戻ってきないッたって僕が行くものを……」
「まア政夫さんは何をしていたの。私びッくりして
……まア綺麗な野菊、政夫さん、
私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。
野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。
どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き
「民さんはそんなに野菊が好き
……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。
二人は歩きだす。
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、
民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
真に民子は野菊の様な児であった。
民子は全くの田舎風ではあったが、
決して粗野ではなかった。
可憐で優しくてそうして品格もあった。
『野菊の墓』 より抜粋