こんばんは!号泣ライターの秋田俊弥です。
前回、ブログに書いたのが、3月10日。
あの大震災の前日です。それから書けなくなりましたf^_^;
しかも、その記事は、Mさんのこと。
今日、ポッドキャスト【クビ寸前の営業マンが91日でトップ営業に変わる!究極の見込み客発掘法】の登場人物も、Mさん。
そこで、Mさんこと、そこそこほどほどだった保険営業マン、三好信行さんのプロフィールを、アップしちゃいます!!
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こんにちは! 「それはもう一生付き合いたいからでしょう!」と心と心を許せる関係作りを目指す、ライフコンサルタントの三好信行(みよし のぶゆき)です。人を大事にするには、まず自分をみとめ、そのことで人のことをみとめることができる、そう考えています。あるがままの自分をみとめてくれるのが家族。その家族を大事にすることを信条としています。
なぜ、わたしが、自分をみとめ、人をみとめることを使命としているのか。その“わけ”を聞いていただけますか?
「なんで落ちたんやろ・・・」
「男は泣くな!泣くのは親の死に目だけだ」
6歳のころから、いつもわたしの父から言われていた言葉。当時のわたしには、とてもこわい父で、よく殴られていました。
なにか悪いことをすると、素っ裸で外に出されて、「ごめんなさい」と言ってもなかなか家の中に入れてくれませんでした。
「おとうさん、こわい」
という気持ちでいっぱいでした。
その結果、人生で泣いたことは、二度しかありません。
小学校時代は、サッカーにひたすら燃えていました。家に帰ると、お菓子も食べずにランドセルを置いて学校へ。夜までサッカーの練習に明け暮れていました。雨の日であろうと熱中して練習し、うまくなることが、とても楽しかったのです。
小学6年生のとき、サッカー部の副キャプテンに。ところが、キャプテンとはソリが合わない。自分よりうまいことをみとめたくなかったのです。
小学6年の夏に、韓国遠征に行くメンバーの選抜がありました。まわりからは、「まず、選ばれるだろう」と言われ、自分でも「あれだけやったのだから選ばれる」という自信がありました。
ところが、まさかの落選。しかもキャプテンは選ばれる。
まわりの人からも「なんで落ちたんや・・・」と言われ、悔しくて悔しくて・・・
でも、大人の前では泣けない。
その日、お風呂場で、肩を震わせて「ううっ・・・」とうめくように泣きました。
「あそこに立ちたい!」
「あいつと同じことはいやや」
中学では、野球部を選択。キャプテンはサッカー。わたしはキャプテンと違う道を・・・という気持ちが、そうさせました。キャプテンに負けたことをみとめたくなかったのです。
野球部に入ると、テレビで放映したいた夏の高校野球に釘付けでした。
「報徳学園の金村、すごいな。チームが一丸となって勝っていく。
自分もあそこに立ちたい!」
いつしか「甲子園に行きたい!」という思いが強く強くなって行きました。
高校進学を迎えて、中学時代はレギュラーだったので、進学校の野球推薦をもらうことができました。ところが、どうしても甲子園に行きたい思いで、地元の野球の名門高校に進学したのです。
希望高校の野球部に入ったものの、1年生は人間として扱ってくれません。「おまえ先輩に向かってその態度はなんだ!」と毎日怒鳴られているのです。どんどん他の同級生がやめていく。野球推薦の進学校をけってまでして野球の名門校に入ったので、そのプライドでやめられない・・・
2年になると、今度は野球の実力がはっきりし、いつも控え。
3年になっても、結局レギュラーにはなれず。同級生とレギュラーの後輩に気を使って、言いたいことも言えない日々。
高校3年の夏の地区大会。決勝まで勝ち残りました。控えでありながら、熱い気持ちで応援していました。「あと一勝で、あこがれの甲子園」
結果は、決勝で敗退・・・
「甲子園に行くために、あれだけ耐えてきたのに・・・」
と思うと、悔しさから、ベンチの中で人目をはばからず泣きました。
その日の夜、下宿先のベットにつくと、急にこみあげてきたのです。
「もうあのつらい練習に耐えなくていいんだ」
と思うと、相部屋の2人に聞こえないように、声を殺して涙しました。
それ以来、二度と泣くことはありませんでした・・・
「燃えることをあきらめた」
高校3年のとき、就職するか進学するかという決断をせまられました。結局、「やり切っていない」気持ちがなにかを先延ばしさせ、とりあえず大学に進むことにしました。大学では、クラブにも入らずダラダラとした4年間。
またあの1年から始めるのがいやだ、という思いと、どこか高校の選択が間違っていたかもしれないという意識が、クラブを遠ざけました。
「レギュラーになれないんだったら、進学校に行っていれば・・・」そういう後悔の念をみとめたくないために、ただただ遊び呆けていたのです。
それからです。なにかに燃えることをあきらめたのは・・・
大学4年になり、就職先は、特に目的もなくただ世間体だけで選択。お金持ちになりたい、親がどう思うか?という見栄だけで、地元の信用金庫に入社しました。
会社では、いつも人の評価を気にして、「三好さん、すごいね」と言われるためだけに努力していました。いつしか、人の評価で、自分の評価が決まる、と思い込むようになっていったのです。
そのうち、同期に自分より抜きん出る者も出てきました。友人が「あいつ、すごいな」とほめても、わたしは「どうせ、こそくな手段を使ったんだろ」と素直にみとめることができなかったのです。
自分よりも成績のいい人をみとめたくないのです。
30歳のとき。重大な事件がおきました。会社が破綻したのです。
わたしは、「えっ?!」信じられない、という気持ちでした。
それまでは、支店長になって出世することだけを目標に、毎日数字数字のプレッシャーに耐えてきました。
「目指すものがない・・・」
その後、上司が生命保険会社に転職。「この仕事いいぞ」と夢を語ってくれたので、転職することを考え始めました。会社の譲渡先が決まり、それを期に、上司のいる生命保険会社に転職したのです。
なにか強い想いもないままに・・・
「手をパッチン!」
上司の言葉を信じて入った生命保険会社。入社10ケ月も全然成績が上がらず、気がつくと手取り4万円。
「信用金庫だったら、寒々として公園で弁当食わへんよなぁ・・・」
ギャップの大きさに戸惑いました。
電話をしても出てくれない。電話に出ても会ってもくれない。
つらい日々を過ごすうちに、人間不信に・・・
ちょうどその時、妻は二人目のこどもを妊娠。給料は底を打ったまま・・・
2年目のある日、妻が淡々と言うのです。
「あなた、いつまで待てばいいの?期限決めて」
この一言で、「もうやばい!3ケ月でなんとかせなあかん」と決めました。それから徐々に成績は上向いていきました。
入社6年目。初めて会社で表彰され、家族でハワイに行くことができました。だましだましやってきて、これからもやっていけるという自信になりました。
なにより妻やこどもたちが喜んでくれたのです。
それまで、妻がこどもたちに、
「お父さんは、みんなのためにがんばってくれてるんよ」
といつも言い聞かせてくれていたのです。
それを聞いて、息子はよく手紙をくれたのです。
「いつも野球連れていってくれて、ありがとう」
下の娘は、会社に行くときに
「おとうさん、手をパッチン」
とハイタッチをしてくれます。
そんな妻やこどもたちに、やっと「おとうさん、やるやん」と言われるようになったのです。
その年の妻の誕生日に、妻から言われた言葉が忘れられません。
「あなたと結婚してよかった」
今までは、心の奥底で「お父さんらしいこと、夫らしいことできなかったのに」と思っていました。妻の一言を聞いて、「一人じゃないんや。みとめてくれる人がいる」と思うと、じわ~っと自分の中から、よろこびがあふれ出てきました。
そのとき初めて、わたしは、
「こんなおれでも、これでいいや」
そう自分をみとめることができたのです。
「お父さん、またあきらめたんやろ」
6年目をピークに、成績は徐々に下がっていきました。最後の「ここぞ!」というがんばりが効かないのです。ただ、最終的には、そこそこの成績はおさめるのです。
妻からは、「あんた、あとちょっとで変わるのに、やめんのよなぁ」と言われる始末。
最初の頃は、こどもたちも「おとうさん、今年は(会社の表彰旅行)どこいくん?」と聞いてくれていたのが、最近では、息子に「今年は、もうあきらめたん?」と言われるようになってしまったのです。
この1年、息子が受験で今まで以上にがんばっているのに、父親としてどうなんだろう・・・
「そんなにテレビ見ていいのか?あと1ケ月しかないのに!」
と息子に言っても説得力がない。
「オレは、尊敬されているんやろか?
尊敬に値するんやろか?」
そんなことを考えて、悶々とする日々。
そんなある日、息子から言われた一言がショックでした。
「お父さん、またあきらめたんやろ」
そこそこほどほど。なにかに熱く燃えない自分。
「『やるやん!おとうさん!』と思ってもらうためには、このままではダメだ!」
そういう想いが湧き出てきたとき、はっと気がつきました。
仕事を仕事として割り切っている。
燃えることを、どこかあきらめている。
「そこそこがんばればいい」
だから、自分で決めた枠の中で、そこそこしかがんばれなかったのか・・・
そういう自分を「変えたい!」と思ったのです。
「プロになったからには、一軍の試合に出て、ホームランを打ちたい!
もう一度、あのひのき舞台に立ちたい!」
息子の一言で、そう思えるようになりました。
わたしの使命
「宿題やって、すごいな」
「今日は楽しくて、よかったな」
家の中では、子どもたちに、そんな言葉を自然にかけていたのです。また、わたしの言葉を素直によろこんでくれる子どもたちの姿を見るのが、うれしいのです。
家の中では、子どもたちに自然と心許している、ただのわたしがいました。
家族の前では、心を許して、オナラもする自分が見えたのです。
そういう自分が見えたとき、家族の前と同じように、お客さんの前でも、かしこまらなくてもいいかもしれないと思ったのです。
ある日、かつて、お客さんから言われた言葉をふと思い出しました。
「そんなにかしこまらんでもええのに(笑)」
今さらながらで恥ずかしいけども、お客さんに、なんでわたしから保険に加入したのかと聞いてみようと思ったのです。
先日、前職の信用金庫時代から16年来のお客さんのところに訪問したときのこと。
「なんでわたしから保険に入ったのですか?」と思い切って聞いてみました。
社長、社長の奥さんとも顔を見合わせて、「やっと聞いたわね」とでもいいたげに二人して笑ったのです。
「いつも三好さん、わたしたちの方を向いてくれてるやん」
「それはもう、一生お付き合いしたいからに決まってるやん」
その言葉を聞いたときに、うれしい!という気持ちと同時に、距離がぐっと縮まったのがはっきりわかりました。
それまでどんなに親しくても、どこまで行っても“お客さん”という感じだったのが、「近所のおじちゃん、おばちゃん」に感じられたのです。
今までは、どこまで行っても、保険を売る営業マンと買う人。
「どこかお客さんには踏み込んではいけない」
お客さんの前では、どこまで行っても他人行儀だったのです。
「肩に力をいれなきゃ自分ではない」
「ちゃんとしなきゃいけない」とありのままの自分をみとめてこなかったのです。
お客さんに素直に自分をさらけ出すことで、お客さんからみとめられるという実感を得ました。その実感から、「この人は、いつもわたしを大事にしてくれている」ということに気がついたのです。
お客さんからあらためて、人をみとめ、人を大事にすることの大切さを教えていただきました。
それからです。お客さんに関わる姿勢が変わりました。それまでは、自分の仕事の都合にいいことしか、耳に入ってきませんでした。それが、「この人の人生どうやったんやろ?」と想像するようになったのです。
さらに、仕事以外のこともお客さんに聞けるようになって、お客さんから
「しょうもないことも聞いてくれて、ありがとう」
と言われるようになりました。
今までにない、人と接することの楽しさが実感できるようになったのです。
この経験から、わたしは、
「自分をみとめることで、人をみとめ、人を大事にすること」を使命として掲げることにしました。
そして、あるがままの自分をみとめてくれるのが家族。その家族を大事にすることを信条として生きていきます。
息子よ、
おとうさんは、
今年は必ずやるし、
よう見といてや!
三好 信行
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「なんか燃えることができない・・・」
「いい人なんだけど、印象がない、と言われる・・・」
「どうしたら、自分の壁を突破できるのか・・・」
と悩んでいる方は、
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<第37回>ついに登場!そこそこほどほどだった営業マンが明かす、エンジン全開になるヒケツ!徹底インタビュー
お聴きくださいね^^)