求刑、でました。
死刑です。
長いこと、一人殺しても死刑にはならない慣例が当たり前になってましたが。
名古屋闇サイト殺人と立て続けに「一人でも死刑」です。
事件・裁判にとても興味のある私は、傍聴こそ行っていないものの
細かく裁判の行方には注意を払っています。
この江東区の事件は、私の友人の「被害者可哀そう度」の1位だそうです。
確かにそうです。
人間の死に方にはいろいろあります。
天寿を全うして「よかったね。良い最期だったね」と言われて亡くなる方。
「こんなやつ早く死にやがれ」と思われるほど、疎ましがられながら亡くなる方。
交通事故などで突然に逝ってしまう方。
長い闘病の末、亡くなる方。
誰かに殺されるべくして命を絶たれる方。
いわれなく殺されてしまった方。
いろいろですね。
日本人は遺体を大切にする民族だそうです。
遺体に敬意を払い、遺体によりそい別れの時間を持ちます。
映画『おくりびと』に、そんな死生観が描かれています。
死ななくても良かった人が死ぬ。
その遺体に別れを言うことさえ言えない遺族。
本当に本当に辛いと思います。
交通事故で亡くなり、遺体がひどい状況になっていたとしても。
まだ、ましと思われるでしょう。
今回の裁判では、遺体の写真や犯行の再現などリアルすぎる表現で体調を崩す傍聴人も
出たりして。
裁判員制度開始を前に、劇場型化する裁判を問題視する意見が出ています。
ただ、私は思うんです。
最近の人は、人の気持ちになることに慣れていない。
隣の人が殺されたとしても。交通事故で死んだとしても。
遺族の悲しみに同化するだけの力を持っているのでしょうか?
今回の犯人は、吐き気をもよおすほどの事を、なんの落ち度もない被害者に行った。
そんな現実を、遺族と同化する体験もあってもいいんじゃないかと思いました。
それだけの苦しみを与えている犯人。
それを伝えたにすぎないと思うんです。
だからこそ、死刑も当然だと。
交通事故は、軽い刑で済んでしまう事が多いですよね。
テレビで耳にする罪状の多くは業務上過失致死。
皆さんがよく知っているケースで。風見しんごさんのお嬢さんの場合もそうですよね。
この場合も、私が遺族なら犯人を死刑にしてほしいです。
殺され方がどうではなく、大切な子供を奪われたことは江東区の事件と同じですものね。
この犯人の刑はおそらく数年の禁固刑。あるいは執行猶予もつくでしょう。
しかし、自分の子供の体がトラックの重いタイヤの下にあって
潰されていく過程を目の当たりにしたなら。
それを裁判の場で、裁判員に見せたとしたら。
禁固刑ではすまなくなるでしょうね。
それは駄目なことなんでしょうか?
しんごさんのお子さんは青信号で、手をあげて渡っていたんですよ。
落ち度は全くないです。
それよりも。もし自分が裁判員になったと仮定して思うのは。
犯人を殺人者にしてしまった原因の一端は警察にあるのではないか。
そんな見落としている問題を指摘する役割を裁判員は持っていないのかと思うのです。
被害者がまだ生存している時、警察は犯人宅を訪れています。
そしてその訪問が殺害を決意させるきっかけになっています。
その後も何度も訪れています。
もし、途中段階でも犯人を止めることができていたら。
あそこまで切り刻まれずに済んだのではないかと思うのです。
犯人の弁護士は、彼のハンデが女性への劣等感につながったと情状につながる主張をしています。
彼の足には大きなやけどの痕があるそうです。
何か、争点がずれていませんか。
少年隊のヒガシも赤ちゃんの時、両足にやけどを負ったそうです。
野口英世は、それを跳ね返す研究者になりました。
弁護士の手法も、長年の慣例でずれていませんかね。
私はもっと怒っていいと思うんです。
被害者があまりにも可哀そうです。
一緒に泣いてあげたいです。