「僕の記憶が正しければ、絶対あの棚にあるんだよね」
「……そんな曖昧な根拠で此処を開けるのか」
「うん」
広い屋敷の地下室前。鉄で出来た重厚な扉に手を突いて、更科はがくりと項垂れた。その手には、扉のものらしい鍵が握られている。その明らかに不満げな表情を横目に、恭介は口元に指を当てた。
「そうそう、梅雨が明けたら中の物を虫干ししなきゃね」
「そうだな」
深く溜息を吐くと、更科は諦めの表情で鍵を扉の鍵穴に挿した。がちゃり、と錠が回る音が辺りに響く。ドアノブを引くと、重い軋みと共に扉が開いた。同時に生暖かい空気が一気に噴出す。それをまともに浴びて、彼は思わず顔を顰めた。
「やっぱり1年近くも締め切っていればこうなるよね」
涼しい顔をしながらもカーディガンの袖口で口と鼻をしっかりと覆った恭介が、扉の奥へと一足先に足を踏み入れる。軽く咳き込みながら、更科はその背後で壁のスイッチを押した。室内に明かりが灯り、音を立てて天井の換気扇が動き出す。
「まあ、虫干しの時に皆の前でこうならなくて済むんだから、良かったじゃない」
「何処がだ」
何とか呼吸を整え、壁を背に凭れ掛かって腕を組む。その様子にくすくすと笑みを漏らす恭介をジト目で睨みながら、更科は溜息を吐いた。
「此処にはお爺様の本しか無いからなあ……面白い本も沢山あるんだろうけど、中々用事は無いかな」
恭介が部屋中にぐるりと視線を巡らせた。何処を見渡しても視界に本が入る程、部屋は本で塗れている。ふむ、とひとつ唸ると、恭介は足を踏み出した。ぱたりぱたりとスリッパを鳴らしながら、所狭しと並べられた天井まで届く書棚の間を歩いていく。ぼんやりと投げていた視線を足音の方向から外すと、更科は欠伸を噛み殺した。
「……で? こんな所に何を探しに来たって?」
「”勿忘草”」
本の向こう側からの問いに、恭介は即答で返した。
「郷倉信二って言う、大正時代の作家の作品だよ。文才豊かな人だったんだけど、どうにもチャンスに恵まれなかったらしい。多分余程の文学マニアの人じゃないと、名前すら知らないんじゃないかな? 当然どの本も悉く絶版になってしまっていてね。お爺様も探すのに苦労したって言っていたよ」
書棚に詰められた本の背表紙を目で追いながら、部屋の奥に向かって歩いていく。すっと棚の端に細い指を滑らせると、指先に淀んだ灰が纏わりついた。苦笑いを浮かべて、恭介はその指先に息を吹き掛けた。
「その郷倉信二は若くして突然精神を病み、それから程無くして入水自殺を果たしてしまってね。その死の直前に書かれたのが、”勿忘草”なんだ」
ひとつの書棚の前で足を止める。そこに詰め込まれた本の中に、郷倉信二の名が刻まれた物が幾つかあった。それぞれの背表紙をじっくりと見ながら、恭介は言葉を続けた。
「細やかな情景描写は美しく、登場人物達の心の揺れを繊細に描くとお爺様も大絶賛だったその作風は、この作品においては全くと言って良い程崩壊してるんだ。いや、これは最早小説とは言えないかな。誰かに宛てた手紙……にしても言葉が纏まってなくて意図が不明瞭なんだけど。……あ、あった」
そう呟くと、腕を精一杯伸ばして目当ての本を取り出した。その表情に笑みが浮かぶ。ぱらぱらとページを捲って中身を確認すると、恭介は踵を返した。書棚の間を抜けて、更科の視界内に姿を現す。
「勿論そんな内容だから、何処の出版社にも断られたんだろうね。見ての通り、手作りなんだ」
更科の元へと歩み寄りながら、恭介がひらひらと本で仰いでみせる。僅かな厚みしかない、一見で素人が制作したものだと分かる粗末な造りの本であった。
「こんな本、一体何処で見つけたんだろう。お爺様って本当に変わった人だよね」
「――それで? それがさっきの『話』と何の関わりがあるんだ?」
興味に顔を輝かせる恭介を横目に、更科は退屈を滲ませた声色で尋ねた。恭介は本から顔を上げぬまま眉を寄せた。
「更科、君は誰かに恋をした事はあるかい?」
「は?」
急な問いに、思わず素っ頓狂な声が上がる。更科は顔を逸らすとひとつ咳払いをした。
「……話が全く見えないんだが」
「まあ、その辺は皆に集まって貰ってからお話しようかな。それじゃ、準備を宜しく頼むよ」
ぱたん、と本を閉じると、恭介は戸口へと歩いていった。廊下へと出る直前、更科へと向き直る。その顔に浮かんだ笑みを見て、更科の顔が僅かに紅潮した。
「何だその笑みは!」
「何でもないよ?」
くすくすと笑いながら、廊下へと姿を消す。憮然とした表情で暫くその場に立ち尽くした後、更科は肩を落として戸口をくぐった。