甲斐。
「まぁ、なんという策なのでしょう」
有姫は、ぷっと吹き出した。
「笑うな」
てっきり褒めるものだと思って、わざわざ勝ちの酒宴へ招き入れてやったのに、なんという奴だ。もっとも、家臣たちが戦の顛末を大げさな身振り手振りで話し聞かせたせいで、面白おかしく感じてしまったのやも知れぬが……。
「小山田の方様はお笑いになるが、御館様はまこと最高の采配を振るわれました」
こたびの戦は武田舘にて留守預かりをしていた荻原政勝が、口を尖らす主を弁護した。
「そうです、そうですぞ。こたびは守りの戦にて、なんぞ土地を得たり金品を得るなど、そのような利はどうにも望めませぬ」
岩崎兄弟の弟・駒井政武がほろ酔い加減にお決まりの指南口調を始めた。すると、お決まりのお決まりに、兄・岩崎信為が便乗してくる。
「さすればこの戦は、いかに消耗無く犠牲無い戦い方をするか、それが肝要だったのであります」
七面倒な兄弟に捕まった有姫が、一生懸命相槌を打っていると、横から一際いかつい将がずずいと割って入ってきた。
「いやはや、私もこたびの作戦を聞いた時には、少しばかり躊躇致しました。なんせこの私が、鬼畜生に大抜擢ですからな」
曽根昌長はそう言いながら、歯を剥き爪立てた手を大きく振りかぶり、鬼か熊の如く、ぐわわと有姫に襲いかかるふりをした。
「今川鍋! まこと傑作であったぞ」
「曽根殿にあれを言われたら、敵ではなくとも小便を漏らしまするな」
それら戯れ様を笑いて眺めていた土屋昌遠が、ふと思い出したように、こざっぱりとした角ばり顔を有姫へ向けた。
「そういえば、かつて小山田の方様は、御館様の敵将として、兵を率いて弓引き合ったことがおありだとか」
「おぉ、そうであったな。それなら戦にもさぞお詳しかろう。小山田の方様であらば、どのようなお見立てをなさいますかな?」
「えっ……いえ、そのような恐れ多き事は……」
どうして武田に刃を向けた戦の経験を、今この場所でひけらかせられようものか。困り笑いをしていた有姫の顔から笑みが去り、困惑だけが留まり残った。
「小山田殿と言えば、こたびお見かけ致しませんでしたな」
特段有姫のためというわけではなあったが、浮ついた話題を好まぬ諸角昌清が、小山田違いの話題を信直へ転じた。
有姫が小さく息をついたのを見やると、信直は立てた片膝に肘を置いて、細い顎を頬杖で受け止めながら答えた。
「あぁ、こたびは今川勢を背後から突くよう、南側より別働を命じた」
「ふむ……。小山田殿の隊は本当に、すぐ後ろまで来ていたのでしょうか。こたびは今川をうまく騙して撤退させられたから良いものの……」
すると、どこからともなくほろ酔いの息が寄り集まってきた。
「俺も、俺もそれは思うたぞ」
「そうですなぁ、もしも今川のすぐ後ろまで来ていたなら、戦が終われども、本隊へ一度でも合流するのが、武田への礼儀というものではないか?」
しこたま酒を食らい、輪をかけて無遠慮になっている将たちのだみ声に囲まれ、有姫は居心地悪そうに身をすくめていた。
そのような有姫の袖をひっぱったのは、信直であった。
「有子、五郎丸が心配だ。お前はそろそろ下がれ。おい甘利、付き添ってやれ」
甘利九衛門は首のみにて御意と示すと、他の将らの悦を害さぬよう、そっと中腰に立ちて有姫を促す。
有姫は目を合わそうとしない信直へゆっくり一礼すると、ぎこちなく先導をする甘利九衛門に従いて座敷を出た。
小雪ちらつく庭が見渡せる廊下を少し歩くと、甘利九衛門は肩越しに聞こえる小さな足音へ話しかけた。
「あの、恐れながら申し上げます」
「はい?」
「御館様は、小山田の方様にも楽しんで頂きたいと思うて、ご好意にて、こたびの宴に招かれたのです。他の皆もああ無骨ですが、御方様に決して悪意ござません」
ぎこちない弁護を、振り向きもせず語りかける甘利九衛門に、有姫はきょとんとしてから微笑んだ。
「ありがとうございます。甘利様はお心お優しくていらっしゃいますのね。ふふ、きっと御館様もお気に入りのことでしょう。ご安心くださいませ。御館様のご好意と、皆様に悪意なきこと、存じ上げておりますゆえ」
いつの頃からか、信直は有姫を有子と呼ぶ。
何故かと尋ねると、「子という字は、お前のようなおなごを指す字だからだ」と言い、柄にもなく漢文を嗜むのだということを初めて知った。
いわば徒名であるこの呼び名は、いまだ人前で妻と目も合わせぬ不器用な夫の、精一杯の愛情表現なのだと有姫は思っている。
だから、大丈夫。私は大丈夫。
御館様のお気に入りと評され、嬉々としながら恐縮する甘利九衛門には、まだ有姫の微笑みの裏にある強さも心細さも、まったく察することができなかった。