天数紀46 | 猫奴隷とあるじさま時々馬鶏

猫奴隷とあるじさま時々馬鶏

捨てられ猫と福島原発被害猫と烏骨鶏の下僕です。
最近はもっぱら信虎さんの歴史小説の投稿にしか使っていませんが、過去記事には猫・烏骨鶏・うずら・競走馬についての記事もあります。

 甲斐。

「まぁ、なんという策なのでしょう」

 有( あり)(ひめ)は、ぷっと吹き出した。

「笑うな」

 てっきり()めるものだと思って、わざわざ勝ちの酒宴(しゅえん)(まね)()れてやったのに、なんという奴だ。もっとも、家臣(かしん)たちが(いくさ)顛末(てんまつ)を大げさな身振(みぶ)手振(てぶ)りで話し聞かせたせいで、面白(おもしろ)おかしく感じてしまったのやも知れぬが……。

「小山田の(かた)(さま)はお笑いになるが、御館(おやかた)(さま)はまこと最高の采配(さいはい)()るわれました」

 こたびの(いくさ)は武田舘にて留守(るす)(あず)かりをしていた荻原(まさ)(かつ)が、口を(とが)らす(あるじ)弁護(べんご)した。

「そうです、そうですぞ。こたびは守りの(いくさ)にて、なんぞ土地を()たり金品(きんぴん)()るなど、そのような()はどうにも(のぞ)めませぬ」

 岩崎兄弟の弟・駒井(まさ)(たけ)がほろ()加減(かげん)にお決まりの指南(しなん)口調(くちょう)を始めた。すると、お決まりのお決まりに、兄・岩崎(のぶ)(ため)便乗(びんじょう)してくる。

「さすればこの戦は、いかに消耗(しょうもう)()犠牲(ぎせい)()(たたか)い方をするか、それが肝要(かんよう)だったのであります」

 七面倒( しちめんどう)な兄弟に(つか)まった(あり)(ひめ)が、一生懸命(いっしょうけんめい)相槌(あいづち)を打っていると、横から一際(ひときわ)いかつい(しょう)がずずいと()って入ってきた。

「いやはや、私もこたびの作戦(さくせん)を聞いた時には、少しばかり躊躇(ちゅうちょ)(いた)しました。なんせこの私が、(おに)畜生(ちくしょう)大抜擢(だいばってき)ですからな」

 曽根( そね)(まさ)(なが)はそう言いながら、歯を()爪立(つまだ)てた手を大きく()りかぶり、(おに)か熊の(ごと)く、ぐわわと(あり)(ひめ)(おそ)いかかるふりをした。

「今川鍋! まこと傑作であったぞ」

「曽根殿にあれを言われたら、敵ではなくとも小便を漏らしまするな」

 それら(たわむ)(ざま)を笑いて(なが)めていた土屋(つちや)(まさ)(とお)が、ふと思い出したように、こざっぱりとした角ばり顔を(あり)(ひめ)へ向けた。

「そういえば、かつて小山田の(かた)(さま)は、御館(おやかた)(さま)敵将(てきしょう)として、兵を(ひき)いて弓引(ゆみひ)()ったことがおありだとか」

「おぉ、そうであったな。それなら(いくさ)にもさぞお(くわ)しかろう。小山田の(かた)(さま)であらば、どのようなお見立(みた)てをなさいますかな?」

「えっ……いえ、そのような恐れ多き事は……」

 どうして武田に(やいば)を向けた(いくさ)経験(けいけん)を、今この場所でひけらかせられようものか。(こま)(わら)いをしていた(あり)(ひめ)の顔から()みが()り、困惑(こんわく)だけが(とど)まり残った。

「小山田殿と言えば、こたびお見かけ致しませんでしたな」

 特段(あり)(ひめ)のためというわけではなあったが、(うわ)ついた話題を(この)まぬ諸角(むろずみ)(まさ)(きよ)が、小山田(ちが)いの話題を(のぶ)(ただ)へ転じた。

 有( あり)(ひめ)が小さく息をついたのを見やると、(のぶ)(ただ)は立てた(かた)(ひざ)(ひじ)を置いて、(ほそ)(あご)(ほお)(づえ)で受け止めながら答えた。

「あぁ、こたびは今川勢(いまがわぜい)背後(はいご)から()くよう、南側より別働(べつどう)を命じた」

「ふむ……。小山田殿の隊は本当に、すぐ後ろまで来ていたのでしょうか。こたびは今川をうまく(だま)して撤退(てったい)させられたから良いものの……」

 すると、どこからともなくほろ酔いの息が寄り集まってきた。

「俺も、俺もそれは思うたぞ」

「そうですなぁ、もしも今川のすぐ後ろまで来ていたなら、(いくさ)が終われども、本隊(ほんたい)一度(ひとたび)でも合流するのが、武田への礼儀(れいぎ)というものではないか?」

 しこたま酒を()らい、()をかけて無遠慮(むえんりょ)になっている(しょう)たちのだみ声に(かこ)まれ、有姫は()心地(ごこち)悪そうに身をすくめていた。

 そのような(あり)(ひめ)(そで)をひっぱったのは、(のぶ)(ただ)であった。

有子(ゆうこ)五郎(ごろう)(まる)が心配だ。お前はそろそろ下がれ。おい甘利(あまり)()()ってやれ」

 甘利九( あまりきゅう)衛門(えもん)は首のみにて御意(ぎょい)(しめ)すと、(ほか)(しょう)らの(えつ)(がい)さぬよう、そっと中腰(ちゅうごし)に立ちて(あり)(ひめ)(うなが)す。

 有( あり)(ひめ)は目を合わそうとしない(のぶ)(ただ)へゆっくり一礼(いちれい)すると、ぎこちなく先導(せんどう)をする甘利九(あまりきゅう)衛門(えもん)(したが)いて座敷(ざしき)を出た。

 

 小雪(こゆき)ちらつく庭が見渡せる廊下(ろうか)を少し歩くと、甘利九(あまりきゅう)衛門(えもん)肩越(かたご)しに聞こえる小さな足音へ話しかけた。

「あの、恐れながら申し上げます」

「はい?」

御館(おやかた)(さま)は、小山田の(かた)(さま)にも楽しんで頂きたいと思うて、ご好意(こうい)にて、こたびの(うたげ)(まね)かれたのです。他の(みな)もああ無骨(ぶこつ)ですが、御方(おかた)(さま)(けっ)して悪意(あくい)ござません」

 ぎこちない弁護(べんご)を、振り向きもせず(かた)りかける甘利九(あまりきゅう)衛門(えもん)に、(あり)(ひめ)はきょとんとしてから微笑(ほほえ)んだ。

「ありがとうございます。甘利(あまり)様はお(こころ)(やさ)しくていらっしゃいますのね。ふふ、きっと御館(おやかた)(さま)もお気に入りのことでしょう。ご安心くださいませ。御館様のご好意(こうい)と、皆様に悪意(あくい)なきこと、(ぞん)()げておりますゆえ」

 

 いつの頃からか、(のぶ)(ただ)(あり)(ひめ)有子(ゆうこ)と呼ぶ。

 何( なに)(ゆえ)かと(たず)ねると、「子という字は、お前のようなおなごを()す字だからだ」と言い、(がら)にもなく漢文(かんぶん)(たしな)むのだということを初めて知った。

 いわば徒名(あだな)であるこの呼び名は、いまだ人前(ひとまえ)(つま)と目も合わせぬ不器用(ぶきよう)な夫の、精一杯(せいいっぱい)愛情(あいじょう)表現(ひょうげん)なのだと(あり)(ひめ)は思っている。

 だから、大丈夫。私は大丈夫。

 御館(おやかた)(さま)のお気に入りと(ひょう)され、嬉々(きき)としながら恐縮する甘利九(あまりきゅう)衛門(えもん)には、まだ(あり)(ひめ)微笑(ほほえ)みの裏にある強さも心細(こころぼそ)さも、まったく(さっ)することができなかった。