人と腹を割って付き合うのが苦手である。


例えば何か嫌なことや落ち込む事があった人に対して、とりあえず「がんばれ」とか「元気出して」と言うことがはばかられる。


それは上辺だけで物を言うのがかっこ悪いと思っているのか、本心から相手のことを気遣ってのことなのかは最早考えるのが億劫になってしまった。


という訳で基本的な対人スタンスとしては「よそ行きの顔」で常に人と接しており、モラトリアム歌手が詩にしそうな、本当の自分なんていうものはとうに見失ってしまった。


だがしかしそれについて別段に悩んでいる訳ではない。


友達と呼べる人は少なくない(と思う)し、人間関係はいたって良好である。


仮面をつけて暮らしていた気がしていたが、実は仮面などつけておらずそれは自分の顔そのものだったのではないかとも思えてくるし、もはやそれで良いのだろう。


そしてこういう場所で言葉にしてみると割と安心できるものである。


インターネットの中では皆それぞれに色んなことを書いているから面白い。


本当に腹の底に沈んだ澱のようなモノを吐き出す人もいれば、内々で盛り上がったり気を使っている人。そして不特定多数に対しても気を使っている人。


実に面白い。


時間と金があればその人が現実ではどういう人で、でもインターネット上ではこういう人を演じているというのを深く掘り下げてみたいくらいだ。


それとやはり面白いのはインターネット上のどんな場所でも必ず出会い目的の男がいるところだろうか。


まぁなんにしてもインターネットは面白い。色んな人の色んな言葉。感動した風景。楽しかった思い出。一昔前ではなかなか共有し難かったものがクリック一つで見れてしまうのだから。


しかしだからこそ今の若い人たちや共有を大事にする人たちは大変なのだろうな。携帯電話が普及しただけでも大変なのにブログやプロフィールを管理したりしてきっと気の休まる時など無いのだろうな。


それにしても夏の雲の形は本当にきれいだと思う。あのラインあの明暗のつき具合見ていて飽きない。


雲を肴に一杯いきたいものである。(今だけか)


雲だけでなく自然界の全てのものの外郭というか輪郭というか、非常に憧れるのはやはり自分が「自然」ではないせいなのだろうか。




自分のことをドSだと言う男性に近年多く出会う気がする。 だがそれは違うと思う。


自分のことをMかな、Mってよく言われる、ドMだと言う女性に近年多く出会う気がする。 だがそれは違うと思う。


近年の男女を見ていて思うのは、自分のことをSと言う男性は世間一般で言われている「B型タイプ」が多いように見受けられる。


差異は多々あれ、ベースとしてはマイペースであり時に唯我独尊であり視野がやや狭くわりと一芸に秀でている気がするのだ。


私は基本的には血液型で性格を診断するあれはまったく信じていないが、傾向としての例えに適している気がしたので挙げてみた。


自分のことをMだと言う女性は、どうにもそれは本心ではなくよそ行きの口で喋っている気がするので本質がわからない。なのでここではスルーをする。(!)


現代の若者達のなかで S=支配的、威圧的、わがまま、制圧願望があるといった感じだろうか。


ならばMというのは被支配願望的なものなのだろうか。


おそらく女性が言うMと言うのは男性に本来備わる「S的気質」をくすぐるためのそれなのだろう。


古くから女性は男性を陰で支え、陰で操り、そうして自分の地位での権力を確立してきたのだと思う。


そう考えれば多くの女性が自分はMであると名乗り男の庇護心をくすぐるのはまた女性の本能なのだろう。


現代と元来のS・Mに共通すると思う点が一つある。


それはどちらのSMも表裏一体であるということ。


近年のSMでは前述した通り「支配・征服」に重きがある気がする。


それはおそらく生物として持ちあわせる本能の部分であろう。また、自分より弱い者を見つけそれを支配することで安心するという現代人特有の(昔からあったと思うが、おそらく現代の方がその人口は格段に多いはず)精神依存症のようなものだろう。


DVがその最たる喩えだろう。


だが同時に人間は集団生活をする生き物である為、被征服欲もあると思う。 それは自分より強い存在に支配されることで安心・安全を得るからだ。


つまり、弱者<弱者<自分 の図式が快楽であり、 弱者<自分<強者 もまた快楽なのである。


相反するベクトルの両極において同一の快楽感があるから実に面白い複合心理である。


現代においては、基本的には「何不自由無く」暮らせる。本当にありがたい社会である。


だが人間としての人生において何不自由無いことはこの上無い苦しみなのだろう。


どんなに金持ちでも現状に飽きてしまった時に幸せは消えてしまう。その消えてしまった幸せを再び掴むにはどうするべきか。


それは何か苦労や困難を乗り越えなければならないのだ。


人間が困難を乗り越え達成感を得た時にアドレナリンが分泌され、その快楽を味わいたくて再び困難に立ち向かうことができる。


だが何不自由無い現在、人々は気づかないうちに自分の周囲に不自由を作り出しているのではないだろうか。


学級崩壊、モンスターペアレント、通り魔猟奇殺人。こうした常軌を逸した数々の現代の歪みともいえる事件の根底には利便性を極めた現代社会があるように思えてしかたない。


釈迦曰く、「生きること それ即ち苦しみ也」 とはよく言ったものである

いま日本を未曾有の危機にさらしている福島原発。


世論も何かと東電の危機管理、脱原発、賠償に関する増税と湧き立っている中


で一つ腑に落ちない。


原発反対を声高に叫ぶデモに最近よく遭遇する。 参加されいる方々の主だっ


た顔はやはり年配の方々だ。


もちろんあんな事故があり、被害を被られた福島の方々を思えば


心中を察しかねる。そこには、被災された方々でしかわかりえない負の感情が


あることだろう。


危機管理を怠り保身の為に情報を隠す東電や政府官僚にはもはや言葉も無く、


彼らがいくら言葉を繕い並べようと、もはや国民の耳には、まして東北の人々に


は決して届くことはないだろう。


話が逸脱してしまったが、私が疑問に思うのは脱原発を声高に叫ぶ人々の胸


中である。


仮に原発を全機稼動停止にしたとして、マスメディアは火力やその他諸々の機


関を使用すれば電力不足に陥ることは無いと言っているが怪しいものである。


もしそれが真実ならばそれは良しである。


だが、今回の福島原発のように


「実はメルトダウンしていました。むしろメルトスルーまでしてました。」


のような事態になった場合にどうするつもりなのか。


周知の通り日本は民主主義国家であり、政治の主役は自民でも民主でも霞ヶ関


でもなく、国民なのだ。私が一番危惧しているのは、マスコミが脱・原発ムードを


煽りたて次の解散後の総選挙が前回の子供手当て選挙よろしく、脱・原発選挙


になり民主党の二の舞になることである。 明確なビジョンをもたず当座のエサを


ばらまき、一先ず上に立ってから考えよう。今の日本にはそんなものを受け入れ


る余裕などないだろう。


大都市を中心にライフラインや情報、娯楽、生活や仕事の殆どを電力に依存しな


ければならない状況だ。はたして現代の人間が電力を抑制した生活に回帰する


ことは可能だろうか? 邪推ではあるが、それは限りなく不可能であると言えよう。


補足しておくが私は別に原発推進派ではない。もちろん危険な物は無いほうが


良いに決まっている。今私たちが取り組むべきことは脱原発をうたうことではなく


代価エネルギーの確立や原子力エネルギーからのシフトにかかる期間や


それに伴う諸問題を考えるべきなのではないかと思う。


飛躍させれば私たち一人一人が政治に関心と知識をもち、時間はかかるかも


しれないが、今の政治体制を根本から変えていかなければならないとは思うの


だが、それはなんとも果てしない話なので控えておく。


情報社会と言われる現代において真実の情報を得ることは砂中の砂金の


一粒を掴むよりも難しいことかもしれない。  だがしかし、だからこそ私たちは


数多ある情報を吟味し選りすぐるアンテナを張り巡らせなければいけない時で


あることは間違いないだろう。


最後にこのたびの震災により大小様々な被害をうけた方達に


心よりお見舞いを申し上げたいと思う。