別府を旅行したときのことだ。
のどかな昼下がり
ツタに覆われた懐かしい雰囲気の建物が目に入った。
「音楽喫茶」だった。
今や、めったにお目にかかれない。
名前は「プラハ」だったろうか、定かでない。
2階席に座るか座らないかのうちに
店内に響き渡る"その音楽"に全神経が惹きつけられた。
ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」第3楽章だった。
おそろしくゆっくりで、一言ひとこと噛みしめるように進む。
僕の聴いた最も遅いテンポだった。
第4楽章、第5楽章と進み、ますます惹きつけられた。
がっしりした骨格と壮大なスケールは
かつて聴いたことのない類のものと感じた。
中学生のころ初めて聴いた「田園」が
ブルーノ・ワルター&コロンビアSOだった。
以来、その美しい演奏にすっかり魅了されて
今でも変わらない。
いろいろな田園を聴いたが
新たな「田園」を求めたことはなかった。
だから、ちょっとショックだった。
演奏者を店主に尋ねると
外出中の息子さんが仕込んだから、よく分からないとのことだった。
諦めて店を出た。
でも、すぐに取って返した。
二度とこの演奏に出会えないだろう思ったから。
指揮者は一体、どんな大家だろうか?
息子さんに問い合わせてくれた。
”ヘルベルト・ケーゲルとドレスデン・フィルハーモニー”
僕にはなじみの無い名前だった。
日本公演のライヴ録音で
NHKがリリースしたものとのこと。
名前さえ分かれば何とかなる
と思って折に触れて探し求めたが、見つからなかった。
あるとき
渋谷か新宿のタワーレコードで
彼らの「ベートーヴェン交響曲全集」を見つけた!
小躍りして購入した。
が、それは違う録音だった。
あの「田園」ではなかった。
テンポが随分速かった。
だが、しかし、・・・ ・・・
そんなことってあるのだろうか?
あったのだ、それは!
銀座の山野楽器に。
少し年配の紳士然とした店員に万一と思い尋ねてみた。
彼は一瞬、空(くう)を見る目つきで「ウーン」と言うと
「あります。こちらへ」と僕を導いた。
NHKから版権を引き継いだ他社が出したとのこと。
間違いないと直感した。
果たして、それはあの「田園」だった。
あの悠然としたテンポだった。
そして、僕は今
空の上でその「田園」を聴く贅沢な時間に身を委ねている。