2019年 明けましておめでとうございますラブラブ

 

昨年より開始した「ぬはり社短歌会」のブログですが、多くの方に訪れていただき、有り難く思っております。

 

本年も短歌雑誌「ぬはり」情報、歌会情報、文学フリマなどのイベント情報を発信していきますので、よろしくお願い申し上げますウインク

 

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2019年 1月号「ぬはり」のご紹介です。

 

「ぬはり」2019年1月号(通巻1023号)

風の声 「初詣」 松本ちよこ

選者・鑑賞者紹介

2918年度「はんのき」年間大賞紹介

各集受賞作品紹介

選者より「選歌一年」

2018年11月号選「はんのき」

各集推薦歌

「ぬはり集」「白雲集」「松籟集」「万華集」「新墾集」

各集鑑賞

短歌の力ーぬはり集に学ぶー 若井富士子

コラム「外航船にあこがれて」(97) 有住亀代治

「底荷をなす短歌」 原裕

「戦時中に詠まれた歌」 加藤道子

支社歌会記

あとがき 松本ちよこ

 

購読会員、新会員募集中です。

見本誌を一冊プレゼントしますので、お気軽にお問合せください。

 

今年も楽しい短歌情報をUPしてきますので、よろしくお願いしますラブラブ

 

ぬはり社短歌会のブログへお越しくださって、ありがとうございます!

 

今年からこのブログをはじめましたが、多くの方にご訪問いただいて、感謝しております。

来年度2019年は、さらにさまざまな活動をご紹介できればと考えております。

 

2019年度1月の東京・神奈川歌会予定をUPしますおねがい

 

<東京1月歌会>

日時:2019年1月9日(水)13時~15時

(毎月第2水曜日開催)

場所:神楽坂ギャラリー「アートスペースK」

〒162-0825 東京都新宿区神楽坂2-11

交通アクセス:JR飯田橋駅より徒歩3分、各線東京メトロ神楽坂駅よりすぐ

 

東京歌会を行っている場所は、神楽坂駅からすぐのとても便利な場所です。

平日に開催しておりますが、「ちょっとのぞいてみようかなぁ~」という気軽な気持ちで、

ご見学にいらしてくださいませ。

会員一同、歓迎いたしますラブラブ

 

 

<神奈川1月歌会>

日時:2019年1月17日(木) 13時~15時

(毎月第3木曜日開催)

場所:小杉2丁目会館

〒211-0063 神奈川県川崎市中原区小杉3-239

交通アクセス:各線「武蔵小杉駅」より徒歩5分 南武線の高架下にあります。

 

1月の神奈川歌会では、5月6日に行われる「第二十八回 文学フリマ東京」の

歌集作りについて、話をつめる予定です。

アンソロジー歌集を作成する予定で、いまから楽しみですおねがい

 

 

ぬはり社短歌会では、他にも、北海道東(河東郡上士幌町)、大船渡(岩手県大船渡市)

仙台、大阪(狭山市)、岡山(岡山市)で毎月歌会を開催しています。

お住まいの地域の歌会に参加してみたいなぁという場合も、大歓迎です!

いつでも、ぬはり社短歌会のメールアドレス、もしくはtwitterのDMでご連絡くださいラブ

 

 

また、ぬはり社短歌会では歌会を行っていない地域のみなさまも、短歌の指導と添削を

行っております。

ご入会いただくことで、指導者の選者の先生による指導・添削を受けることができます

ので、どうぞお気軽にお問合せください。

 

新墾集(にいばりしゅう)にご入会いただきますと、10首の短歌を提出でき、そのうち

6首~8首が短歌誌「ぬはり」に掲載されます。

 

「自信がないけど、こんな短歌でも大丈夫?」「いままでつくった短歌がたくさんある

けど、指導者の先生についてみたい」という方は、ご連絡ください。

選者の先生による丁寧な指導で、確実に短歌の力がUPしていきますおねがい上矢印

 

 

管理人自身も選者の先生から指導をしていただく立場なのですが、1人で勉強して

いたのでは知りえない言葉、短歌技法のバリエーション、短歌だからこそ表現でき

る言葉などに出会い、とても勉強になっています。

1人で学べるのも勿論短歌の良さですが、1人では行き詰ってしまった時、誰かに

学ぶのも一つの方法です。

ぜひ、いろんな短歌の道にチャレンジしてみてくださいね。

その助けに、ぬはり社短歌会がなることができれば、とても嬉しいです爆  笑

 

どうぞよろしくお願いいたします。

歌会見学、購読申込、見本誌プレゼント申し込み、入会のお問合せなど、

お待ちしておりますおねがい

 

 

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ぬはり社短歌会のブログへお越しくださって、ありがとうございますおねがい

 

2018年11月25日(日)に開催された「第二十七回 文学フリマ東京」に初出店した

ぬはり社短歌会ですが、たくさんのお客様に訪れていただき、本当にありがとうございましたラブ

 

歌集を購入してくださった皆様、おみくじ短歌をひいてくださった皆様、巾着袋をもらって

くださった皆様、ブースの前で足をとめてくださったみなさま、チラシをもらってくださったみなさま、

本当にありがとうございました。

感謝しております!

 

午後のスタッフで記念撮影です。

 

東京・神奈川の会員が中心となって頑張りました!

80代が中心の短歌会は、ぬはり社短歌会だけだったかも(^^;)

歌集もつくり、売り子さんとしても声をあげて頑張りましたラブラブ

 

ブースには、「ぬはり社短歌会」の説明も。

歌集の短歌を載せたポストカードも準備しました。

 

どなたでも無料でひける「おみくじ短歌」を行ったのですが、これが好評ですぐになくなりました。

次回の文学フリマでも「おみくじ短歌」を行う予定ですので、ぜひおみくじを

ひきにきてくださいね!

 

 

今回は、新刊歌集を20種類用意して挑んだ文学フリマ。

来年の「第二十八回 文学フリマ東京」へ出店することも決まったので、

いまから歌集作りを行っていきたいと思います。

 

それにしても文学フリマの裾野の広さには驚かされました!

さまざまなジャンル、評論などが出店しており、見て回るだけでも楽しかったです。

管理人自身も、いろんな歌集や句集、小説などを購入しました。

次回も素敵な文芸作品との出会いを楽しみにしております。

 

来年の文学フリマに向けて、いまから始動してまいります上矢印

みなさま、ぜひよろしくお願い致します星

 

 

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ようこそぬはり社短歌会のブログへ

 

短歌・俳句・自由詩(二)  菊池知勇

 

以上を簡単な言葉で形容すれば、短歌は単一線の詩であり、俳句は単一面の詩であり、 自由詩は多数の線と面を交錯した詩である。しかもその目ざすところは、線でもなく、面でもなく、それらの交錯でもなく、それらを含んだ文体である。

つまり、歌人は単一な言葉の線によって感情の立体を表現しようと努力し、俳人は単一な言葉の面によって感情の立体を表現しようと努力し、詩人は無数の言葉の線と面の交錯によって感情の立体を表現しようと意図するのである。

短歌の三十一文字は、それによってつくられる単一線によって立体感情をあらはすので あるから、三十一文字は、その感情の全立体のポイントをがっちりと掴んで、単一の線を形成し、その線の核心性によって全立体感情をあらわさなくてはならない。したがって、その三十一文字は単なる三十一文字であることを許されない。三十一文字以外の豊かな感情を随伴しなくてはいけないのである。文字以外のこの感情を、従来余韻とか余情とかいって来たが、余韻とか余情とかいう言葉は、文字に対していわれた言葉で、実は主情とも主題ともいうに値する短歌の主体であって、短歌に於ける詩性はここにある。この詩性があればこそ短歌は芸術なのである。

これを物にたとえれば、短歌の三十一文字は精製されたお茶であり、三十一文字以外の 感情は、そのお茶から発する高い香気なのである。その高い香気をもたないお茶は、単なる茶の木の葉に過ぎず、お茶たるに値しないことはいうまでもない。

俳句の十七文字と、その十七文字によってあらはされる感情との關係も、自由詩の自由 な言葉と、その言葉によって表現される感情との調係も、短歌の場合と何等異なるところがない。

このように言葉と感情との關係は短歌に於ても、俳句に於ても、自由詩に於ても、全く同様であるが、線によってあらわされる立体感と、面によってあらわされる立体感と、線と面との複雑な交錯によってあらわされる立体感とは、原則的にも実質的にも全く同一ではあり得ない。それらを形成すべき原体、即ち生活の実質に於ては、それほど著しい相違はないにしても、線を見る人と、面を見る人と、それらの交錯を見る人の、生活観照態度によって、はやくも生活相が異色のものとなり、線による抽出、面による把握、線と面との交錯による構成によって、三者三様の全く別個の世界を形成してしまう。所謂短歌的生活感情、俳句的生活感情、自由詩的生活感情ともいうべきものに成長を遂げるのである。

 

短歌、俳句、自由山詩の本来の性格、特色が前述のように明瞭であるにもかかわらず、実 際の作品には、この特色を混交しているものが決して少くはない。というのは、歌人はあらゆる題材を短歌の技巧によって表現しようと試みて俳句や自由詩の領域を犯し、俳人はあらゆる題材を俳句の技巧によって表現しようと試みて短歌や自由詩の領域を犯し、詩人はあらゆる題材を自由詩の技法によって表現しようと試みて短歌や俳句の領域を犯すから である。しかもそれは必ずしも失敗するとは限らず、大工鋸で植木の枝を挽いたり、薪木を挽いたりするような間に合せも時には成功するからである。

 

○                  長塚 節

脱ぎすてて臂のあたりがふくだみしちぢみの単衣ひとり畳みぬ

  ○                  若山牧水

幾山河越えさりゆかば寂しさのはてなむ國ぞ今日も旅ゆく

  ○                  北原白秋

今日もまた郵便くばり疲れ来て唐黍の毛に手を触るらむか

  ○                  松尾芭蕉

しづけさや岩にしみ入る蟬のこゑ

  ○                  与謝蕪村

甲斐が嶺に雲こそかかれ梨の花

  ○                  小林一茶

あつぱれの大若竹ぞ見ぬうちに

鮎のかげ               室生犀星

瀬なかにほくろのある鮎が

日のさす静かな瀬のうちに泳ぎ澄んでゐる

幾列にもなって

優しいからだを光らしてゐる

その影は白い砂地に

かげ繪のやうに

大きくなったり小さくなったりして

時にはぼけたりする

水のかげまで玉をつづつて

底砂へ落ちてゆく

 

ちひさい物音にさへ

花のやうに驚いては散つて

またあつまる鮎

ちらりと群をぬいた大きな鮎が

ときどき群を統べてゐるのか

すこし瀬がしらへ出たり

ほこらしく高く泳いでは水面へ

ぼちりとはねくり返る

しんとした波紋がちる

あとは土手の上の若葉の匂ひがするばかり

 これらは、それぞれ短歌、俳句、自由詩本来の特質を本格的にあらはした作品の一例である。

手毬     中村汀女

人のつく手毬次第にさびしけれ

 こども    山村暮鳥

おや、こどもの聲がする

家の子供の泣聲だよ

ほんとに

あんまり長閑なので

どこかとほいとほい

お伽噺の國からでもつたはつてくるやうにきこえる

これらは何れも短歌の本質である単一線をとらえたもので、歌人ならば前者を「手毬つ く人の手もとを見てゐしがいつかさびしくなりにけるかな」後者を「はるかなるお伽の國 ゆきこえくる聲かと思ふ吾子の泣く聲」という風に表現するであろう。つまりこれは、俳人や詩人が短歌の領域に取材して自己の技巧のうちに消化した例である。

○    前田夕暮

春あさく動物園のベリカンは赤つぶら眼をひらきたるかも

春の河  山村暮鳥

たつぷりと

春は

小さな川々まで

あふれてゐる

あふれてゐる

これらは俳句の単一面をとらえたもので、 俳人ならば、前者は「ベリカンのつぶら眼赤 し春あさく」後者は「春なれや小川小川の水の色」といった風に表現するであろう。これは歌人や詩人が俳句の領域から取材したものと見てよい。

行数が尽きた。あとは類推に待つ。()

(『ぬはり』2410号 昭和2510月)

 

 

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短歌・俳句・自由詩(一)  菊池知勇

 

歌は三十一文字の詩、俳句は十七文字の詩、そしてこうした字数の制限をもたない自由な形の詩を単に詩と呼ぶことは、一般にいいならされており、この区別に疑問をもつ人はない。そして、短歌を作る人は専ら短歌を作り、歌人として自他共に許し、俳句を作る人は専ら俳句を作り、俳人として自他共に許し、詩を作る人は専ら詩を作り、詩人として自他共に許している。

 これらの人々は、各自、それぞれの立場を守って自分の信じている短歌を作り、俳句を作り、詩を作って不満を感じないごとくである。即ち、短歌を作る人は何でも三十一文字に盛ろうとし、それが不可能な時これを捨てる。俳句を作る人は何でも十七文字であらはそうと試み、それが出来ない時に止めるといった風である。もっとも、同一人でこの三つの詩形を巧みにつかい分けている人もないではないが、それは異例といってよい。

一体、短歌、俳句、詩の当別は、単に詩形が違っているだけのものであろうか。つまり同じ材料でも、自由な形であらわせば詩になり、三十一文字で歌えば短歌となり、十七文字で表現すれば俳句になるであろうか。

これらの詩形がもつ特殊な形態から、制約から、それに伴う表現技巧から、自ら生まれてくる声調、色彩が、そのまま詩となり、短歌となり、俳句となるのであろうか。

こういったら、詩人も、歌人も、俳人も、それぞれ否と答えるであろう。即ち、詩には詩の心境があり、短歌には短歌の心境があり、俳句には俳句の心境があって、それらは、それぞれの詩形に先行して存在するというに違いない。

もとより、自由形式の詩、三十一文字の短歌、十七文字の俳句という厳然たる形式が、偶然の形式ではなく、内容そのものが必然的に要求した形式であるならば、それらの形式を要求した内容上の本質があるべきは当然であり、それぞれの本質がもつ性格はその形式が示しているだけの相違をもっている筈である。そこで、その本質の相違はどこにあるかときくと誰も説明してくれない。

 

よく詩的な心境、短歌的な心境、俳句的な心境という。これでは相手を納得させることは出来ない。結局、作ってみるとだんだんわかってくるということになる。まことにその通りであろうが、それでは区別にならない。

けれども、多くの場合、詩、短歌、俳句の作品の多くの実例から、その実例が示す心境、 性格を帰納して、わかったような、わからないような模倣をはじめ、何時とはなしにその世界にはいって行くのである。

つまり今日までの詩作、歌作、句作は、その出発が、それらの詩の本質についての明確な認識の上に立ったものではなく、伝統の上に便乗したものだということが出来よう。

勿論、それは決してその人のやがての作品の価値の上に何の関係もないことであって、 結構それでよいのであるが、少くとも、詩作、歌作、句作の上のいろいろの問題について考えたり、研究したり、自分の態度を決定したりする上に於て、幾多の無駄をしたり、過誤を犯したりしないとは限らない。

私は詩作、歌作、句作に比較的縁の薄い人たちの団体に招かれて歌の話をすると、よくこの三者の本質上の区別、相違について質問された。そしてその都度、これから作ろうとする人たちが第一にそれを知りたがるのは無理のないことだと思った。

 

上代日本人がその感情を端的に發表するため、島国日本に発達した特殊な言葉の音律に 助けられて、長い年月の間に完成した形式が二つあった。

その一つは、複雑な感情の燃焼を全面的に歌うために、五七の音律を基本として反復唱述した長歌である。

他の一つは、燃焼し切った感情の焦点の一つ一つをとらえて爆発的に叫んだ五七五七七音律単一形の短歌である。

ところが日本人の島国的な気短かな性質からしても複雑な感情の全面を把えて縷々として唱述する厄介と、五七音律の反復という形態が複雑な感情の表出に必ずしも好都合ではなく、その中にこの長歌は廃れて行った。

これに反して、感情の焦点を瞬間的に爆発する叫びがこの島国人に適したのと、五七五七七の音律がその発想形式として適切であったため、ひとり短歌のみが栄えて、民族抒情の唯一の形式となった。

こうした傾向は、国民感情の単純化に拍車をかけて行くうちに一部の人たちは、短歌の 五七五の上半句と七七の下半句とを別人が歌って組合せて遊ぶことをはじめ、そうした遊びのうちに上半句だけで一つのまとまった表現を完成した。これが俳句の始まりである。

つまり短歌は緊迫した感情を叫び歌う心の諧調から生れて遊びに移行したのに対し、俳句は遊び眺める心の餘裕から生れて次第に緊迫の度を加えて行ったものである。

この俳句は短歌よりも一層焦点的であり、瞬間的なので、この島國民により歓迎され、急テンポで庶民階級に浸透して行った。

ところが、欧米との交通が自由となり、彼の地の文化が輸入され、國民生活が世界的になるに従い、感情の焦点のみの把握では満足出来ない人々を生じた。それらの人々は、もっと複雑な生活感情を総合的にあらわすために昔の長歌を逆に七五調を反復して所謂新体詩を創始した。しかしこれは所詮複雑な感情を表現すべくあまりに不自由であったから、間もなくこれを捨て去り、更に解放された口語をとり入れて今日の自由詩を生み出した。

 

さて、こうして発生し、成長して来た短歌俳句自由詩の、それぞれの本質上の特色、差別はどこにあろうか。

短歌の出発は抒情であり、それがどんなに焦点化しても情緒という感情の緒たる特質を失わず、それは対象の瞬間的縦断面に於て見られるものであった。短歌の生命は感情の縦断面に見られる心の線の美しさにあるということが出来る。短歌に於けるあらゆる技巧は、この線の美しさを完成するためのものであり、この線の美しさは音楽の美しさをも完成する。

これに反して、俳句の生命は燃焼した感情の焦点に於ける横断面の美しさにある。横断面に輝く色彩美、切断された感情の点の配合美こそは俳句のねらいである。内容に季節感を盛って断面の色彩を濃厚にしたり、言葉の重複を避けて点の点たる特色を堅持したり、切字によって配列された点の關聯を緊密にしたり、俳句に於ける技巧の一切は横断面美の完成のための方法に盡くされ、ここに絵画美を完成する。

自山詩は複雑な感情の全貌の表現であるから、単純な線でもなく、点でもない、幾多の線、幾多の点の複合である。縦断と横断の複合である。それらの複雑なオーケストラであり、立体塑像である。自由詩表現上のあらゆる技巧は、複雑な音楽と絵画との一体化に集中されるのである。

(『ぬはり』249号 昭和259月)

 

 

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