子供が昨年、知的障害を伴う重度のASDと診断されてから、怒涛の月日が流れている。
これほどまでに、生活スタイルが変化するのかというくらい変わった。
毎日のABAを主体とした療育と、元々私が障害を持つ方々と関係を持てる職についており
それぞれの障害特性の「魅力」も知っている立場としての介入。
見事とまではいかないが、ASDを抱える5歳の子供は現在言葉を発している。
外食も普通に行けるし、上手に箸も使えている。
保育所では、他の園児たちとも子供なりのコミュニケーションを取っており
やけに好かれている。それと同時に、特性である常同行動も残しているし
その他にも、まだまだ発達に伸びしろがある。
何か問題でも?
親として、将来少しでも選択肢が増やせるようにと、ABAを主体とする療育を行ってきたが
時折、私自身にこう問いかける。
普通に合わせる必要がどこまであるのか?
社会の方に、もっと理解や共通認識が必要なのではないのか?
インクルーシブ教育は勿論、インクルーシブ社会を構築することが大切なのではないか?
親である自分が、子供の特性を認めてあげられていないのではないか?
うちの子供だけではなく、子供達は本当に頑張っている。ある意味頑張りすぎており
ABA療育をしてきた子供に限らず、発達が伸びた子供の中にも、本心が見えにくくなったり、自己肯定感が低くなったり、大学に入学、卒業した後に、慢性的な統合失調症を抱え、
私が勤務する事業所を利用する方も少なくない。
紐解いていくと、ベースに発達障害があるというパターンが最近とても多い。
勉強も出来てIQも高かった。そういう意味でも、発達検査などの数値が上がり
一喜一憂していたものの、数値はあくまでも目安であるのだと感じる。
いくら発達が伸びても、ベースはあくまでASDなのである。だからこそ
親としても、社会としても適切な理解や継続的なサポートが必要だと思う。
出来る?出来ない?
そこにとらわれ過ぎていたことにも気が付く。
ある方の紹介で、素晴らしい施設に見学に行かせて頂き、勉強させて頂いたのが
「行為自体を承認する」という考え方です。ABAのスモールステップに
置き替えることも出来るものの、説明が難しいのですが、個人的にはニュアンスが違います。
本人が、やろうとする意欲、行為自体を承認するよう心掛けた結果、
一時、DTTに疲れ気味で、泣いてばかりいた子供が満面の笑みで
自分から話しかけてくることが増えた。
本人の主体性や特性を大切にする意味において
現在は、PRTやフリーオペラントの考え方も取り入れながら療育を行っています。
少々間違えたって、上手じゃなくなって、意欲やエネルギーがあれば何とかなるし
そういう人を見ると、人は協力してくれると思うのです。
ABAにしろ何にしろ、原理は同じでもやる人によって結果は大きく異なる。
ABAの効果を実感しつつも、とあるABA介入に対しては、私はアンチABAでもある。
身の危険があったとしても、消去のみで対応したり、
動機づけ操作のために、とにかく枯渇させるという考え方は苦手です。
将来ABAが日本でも公費化されれば良いと強く思うが、そういう意味において不安感もある。
実費負担ですら虐待が起こってしまっている状況で、公費化された場合に、
クオリティの維持が親としてとても心配になります。
課題優先ではなく、リアルタイムに相手の気持ちを察知し、
変化させていく能力も必要だと思います。
そう簡単ではないが、子供に強化されながら今までやってこられました。
大切なのは、どれだけ資格を取得しようが、えらい立場になろうが
固定観念に縛られず、新たに学ぶ姿勢を忘れないことだと思います。
PRTの機会利用型の介入は、子供との関係がよりフェアになれるので
最近は、DTTが苦手だった妻も、子供と以前より良い関係が持てています。
案外、この人生も悪くないと最近ようやく思えるようになってきた、秋のひとときです。
さぁ、みんなでどこか出かけようかな。