能・謡曲が好きなのだが、歴史好きの方とお話すると必ず出てくる話題がある。




信長と「敦盛」。超有名な「人間五十年 下天の内をくらぶれば・・・」の一節だ。これは能の一節だと思っていらっしゃる方が大変多い。


で、実は…と話すと必ずと言っていい程がっかりされるのだが。




能・謡曲には確かに「敦盛」という演目がある。が、その中で「人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢まぼろしのごとくなり」の一節は全く出てこない。だから、舞も無い。信長が好み、よく舞ったのは「幸若舞」の「敦盛」なのだ。こちらは現在、幸若舞保存会の方々が大切に受け継ぎ、国の指定重要無形民俗文化財にも指定されている。




何故 能の【敦盛】=信長、と広まってしまっているのか。一つは司馬遼太郎先生の勘違いがあるかと思われる。


「濃尾参州記」で、謡曲「敦盛」を信長が好んだ、と記していらっしゃる。名作「国盗り物語」では「幸若【敦盛】」と書いているのだから、単純な誤記か司馬先生が「幸若=能」と間違えていらっしゃったか、どちらか。




そして、映画監督・黒澤明監督の影響もあるのではないだろうか。こちらも名作「影武者」において、隆大介さんが演じた信長が、能の仕舞の形をとって【敦盛】を舞う場面があるのだ。


相当稽古を積まれたのか、ちゃんと見せる仕舞になっている。実際には存在しない【敦盛】の謡も、それっぽくなっている。だからこそ説得力を持ち、信長は能で敦盛を舞ったのだ、と観客に思わせてしまっている。


黒澤明監督が能と幸若舞の違いをご存じだったかどうかはわからない。映像として表現しようと思った時、能が一番適していると思ったのかもしれないし、単に黒澤監督の好みでそのように演出なさったのかもしれない。


黒澤作品には「蜘蛛の巣城」「乱」などでも、能を連想させる演出がたびたび見られる。




この二大巨匠に「信長=敦盛=能」とやられてしまっては、その後の作品はそれに倣うことになる。信長を扱った映像作品では、桶狭間・本能寺の変のシーンは必ず存在しない能の敦盛が撮影されてきたのだ。


能楽師も振り付けの依頼を受け、困惑して「能の敦盛にはそんな仕舞も謡もありません」と説明するのだが、製作者側は「それでもいいからとにかくやってくれ」と言い、結果として全部型の違う「敦盛」を、様々な俳優さんが舞うこととなってしまった。




私が師事する能の師匠も昔、信長が出てくる映像作品でそういった依頼を受けた。ありません、と返事したが「なんでもいいから適当に」というかなり失礼なことを言われ、義理もあって不承不承俳優さんに振りつけたのだそうだ。今もDVDでその作品を見ることが出来るが、仕舞の経験が無い俳優さんなので、こういっちゃなんだがかなりひどいことになっている。




最近は製作者側が幸若と能は違うのだということを知っているのか、それとも能の仕舞では地味だと思っているのか、信長は歌いながら刀を振り回したり槍を持ってすたすた歩いたり、という演出が多い。




それもどうなんだ。

…とは思うが、信長が好んだ「敦盛」の一節を本当に幸若舞で舞ったかはわからない。初期の幸若は、謡に重きを置いたという節があるからだ。

ならば、型にはまった仕舞を舞うよりも、心のままに即興で舞ったというほうが「信長らしい」といえるかもしれない。