こどく | ふつうに休みたい・生きる事をふつうに楽しみたい ――ある線筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群患者ブログ

ふつうに休みたい・生きる事をふつうに楽しみたい ――ある線筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群患者ブログ

筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群というわかりにくい病気について、症状、感じた事、試した事について書いています。
何か、参考になったら幸いです。

 

なんか、変な事を読んだ事がある。古代、大陸であったという呪術。蠱毒(こどく)という方法。

一つの壺に、あらゆる毒虫を入れて、それを土に埋めて戦わせて、生き残った最強の一匹を使って、強力な呪いの力にする方法なのだそうだ。

生き残った最強。ひとりで勝ち残る。

なんだか、それが、「問題のある家庭」とか「一方的な価値観な社会」とか。そんなふうにも見えてしまった。

 

ひとりで生き残るために強くなる。

 

――※1


もしあなたが

「強者」なら

自然の摂理に従って

僕を食べてください

弱いまま生き続ける事は

屈辱でしかないから

あの時 もしも

あの小鳥が

食べられずに

空をずっと

飛んでいけたら

僕も飛べたかもしれない

僕も違う生き方が

できたかも

しれない

 


 

 

 

 

 

上で出した詩は、昔読んだ漫画の中に出てくるのだが、最近読んだ漫画でも、ちょっと、そんなテーマも入っている漫画を読んだ。

(「キングダム」原泰久 集英社 2006年9月より連載中)

 

古代中国の戦国時代が舞台の複雑にいろいろなテーマが入っている物語だと思うが「強さとは何か」ということも入っているような気がする。

あらゆる関係性や感情の交流を絶って、修行して、強さそのものを目指す者。

純粋培養みたいな桁外れな強さを手に入れている。

でも、仲間と一緒に、もまれながら強くなった者に、手こずる。

なんで、感情的なしがらみがある者に、自分が勝てないか。彼らは、わからない。

 

どっちが正しいか、どっちが強いか、という答えが描かれているわけではないが、「ひとりで修行する」者の強さと、小ささや脆さというか。

どちらかというと、一人でがんばろうとし、結果だけを気にしていた自分は――自分の弱さだけは絶大な自信があるが――考え方が、断ち切って強くなろうとする方だったなあと感じた。

 

拙い頭で、合理的な努力をして対抗しようとしても、予想外の事が起こっては崩される。

なんか、似ている感じがする。

 

 

こんな事を聞いたりもした。

 

「自分の力だけで治ったという人は、物凄く性格が悪くなる」

「特定のドクター。特定の薬という形で治った人は、回復の足腰が弱い」

 

というような意味の事を言っていた専門家がいた。

 

大雑把には、わかる気がする。長年患っている人は、いろいろな要因が重なっている。

わかりやすい所を取り出せば、オキシトシン(愛情ホルモンとか言われてた。信頼している人(動物でも)と一緒にいると出るそうな)とか、アセチルコリン(間違えた)コルチゾール(ストレスが高い時に出るらしい。魚でもストレスがあると出てるそうだ)とか、そういうものになるのかもしれないが。

 

「治るのを諦めた所に道がある?」

 

ここは、正直わからない。委ねるという事がわからない。

治るのを諦めると、自分は、生きる事を諦めるみたいになる。

自分にできる事なんか、そんなに無いのかもしれない。

わからない。

ここは、まだ、自分にはわからない。

 

 

ただ、難しい毒を抱えた自分が、壺の中で修行をしても、感情と感覚を切り離した努力になってしまい、ますます、おかしくなっていくのを感じた。理解してくれる人も、頼れる人がいないから、と諦めて、強くなる者を目指して、成功したとしてもあんまり良い者にはならないだろうな、という事だけは、感覚としてわかる。

 

そういう錯覚をして醜悪で凶悪になった人たちを見てきた。実感として、あれは、他人事ではないと感じた。

一生懸命何かをしようとした人の方が、方向性が間違った時に、酷い事が起こる。

 

 

非常に辛いし、まだ、生きる事を楽しめているわけではないが、いろんな人と話すようになった。

まだ、心の中の隙間が小さすぎて、緊張や不安が酷くて、うまく人の話を聞けない。頭に入っていかない事も多い。でも、聞こうと努めている。

 

前にも書いた事だけど、あまりにも、疲れ過ぎていて、別の感覚を持ってしまった人には、

「感覚の持ち合わせがあって、感覚の仲立ちをしてもらえる人が必要」

これも、一人で、感覚の離れた健康な人と直接交渉は難しい。

 

 

方法はともかく、自分の感じている事や、考えている事を、かなり無理しながら、長距離移動をしながら、伝えたり分かち合うようになった。

以前、自分の思っている事を正直に言っても、それが伝わらないと、絶望した時、穏やかな想像をする事、自体が難しくなった。

切羽詰っている人が、車で一緒に海に突っ込持ちかけてきた時にも、ほんのちらっと、考えなくもなかった。

 

いろいろな本を読んだり、穏やかな音楽、絵、物語を読んでも、穏やかなイメージがわからないんだ。

穏やかさをイメージする事自体ができなくなっていた事に、なんだか、凹んだ。自然やアイドルにも、脳内でも心を許せる存在がいないのか。

綺麗な花、動物、イケメン、優しい女性。難しい。

 

明らかに今までは、異質な心身の病み方だった。

 

 

ああ、自分の中に、強烈なおぞましいものが生まれたと思った。蠱毒が生まれたって思った。

生き残っても最強の毒虫になって、周りに呪いを振りまく存在になるのは、嫌だ。

 

自分の事を伝えるたびに、誤解を受け、調整に心を砕くのは、本当にしんどい。でも、それをやめて、極端な力に頼るのは、蠱毒みたいなものだ。

 

 

大きかろうと小さかろうと、毒虫にはなりたくない。

自分の気持ちをちゃんと伝えた方がいい。そちらの方が、まだ、良いものに近い気がする。

 

わけわかんない、哲学的な話になってしまって、すみません。

 

読んでくださって、ありがとうございました。

 

 

――※2

 

煙は空に上がり

雨になって

植物の花を

咲かせ

人は死んで

焼かれて

灰になり

 

土に返っていくし

食べられた動物も

糞になって土に返り

養分となって

花を咲かせる

 

だから

弱い生き物

として

生まれたから

といって

 

嘆く事なんか

ないんだよ

 

だから

 

※1,2ともに

遠藤浩輝短編集1 講談社アフタヌーンKC「カラスと少女とヤクザ」 1998.4.23より