街頭スナップ
一昨年の夏、古いミノルタ一眼レフを持ち出して撮影していた時期があった。
一連の撮影は全てフィルムで行った。思い返しても少し懐かしく、撮影シーンには不思議に昭和的テイストがあるのは、私が心の奥に生活風景や、そこに加わる人の動き・肉体に憧憬があるからだと思う。プリントには封じ込められた時間軸を眺めながら、感覚的記憶と実証された記憶を合致させる快楽がある。。
聞けば、Nikonが新しい高級コンデジ発売を見送ったという。製品化に支障があったと伝わるが、老舗のカメラメーカーであってもコンデジ開発から撤退するのは時間の問題に思えた。
それは一つの終結としてスマホ存在をあげつらう云々よりも、根本の問題は人々が撮影画像を最終的にプリントをしなくなった事だ。デジタル画像は送信される媒体に変わり、写真は時間に平行して存在する記録ではなくなった。
スマホで有効に使われる画像は時間に対して即時性という縦軸な情報であり、経過した時間を未来にもたらす対向軸を持たない。デジタル画像は記録媒体そのものが脆弱で短命である。その画像再生機がなければ存在しない電気信号であり、その信号自体も風化する。
大阪城には『大阪夏の陣合戦屏風』が展示されている。数百年前の悲惨な戦争を現在にも伝えている。言わばアナログ情報と記録による伝達の極みだと言える。
だが、デジタル画像データが数百年後の人々に伝達される保証は屏風絵以下なのかもしれない。時間軸に沿って記録を維持しない信号である以上、消えて行く運命でもある。
アナログ情報に転換(写真ならば画像からプリントする作業)を人々が止める時、写真は終焉を迎え、カメラという専用機械・道具も役目を終えるように思える。
おそらく人工知能による撮影と記録維持も近未来に行われるではあろう。しかし、その時代に撮影者である私はいない。たぶん、寿命が尽きて『死』という堕落した眠りについているはずだ。
それは写真も含めて私が『死』ねば楽になる。楽をしたいから『死』に堕落するわけだ。そして、存在の否定ほど鋭い痛みを感じるものは他に知らない。
