未熟な戦い
以前、靖国神社の境内には戦争資料の施設があった。今は立派なガラス張りの展示館だが、当時は戦前の面影を留めた古めかしい建物の中に、復元された人間魚雷『回天』や九七式戦車や彗星艦爆などが展示されていた。その建物の傍ら前庭に、赤錆た丸い輪切りになった鉄の構造物が展示してあり、それは展示物というよりも、何か置き忘れたような雰囲気の中にあった。
その錆びた構造物は人間魚雷『回天』の船体を一部切断して保存した物であり、ちょうど操縦部に相当する付近。床に小さなハッチがあり、それと理解出来た。私は館内にある復元された模型的な『回天』よりも、雨ざらしで輪切りされた赤錆た構造物に、人間魚雷の残酷な運命を見るような思いがした。
先日、北朝鮮の工場を米国の衛星による探査写真が公開されて、北朝鮮が建造中の潜水艦構造物とニュースでは報道していた。その写真を見て、そこで、あの『回天』の輪切りになった構造物を思い出した。
戦争とは空しいもので、映画や劇画のように物語・ロマンなどは存在しない。いかなる精神主義で美化しても、物語の介在する余地は微塵もない。人間同士が戦いながら、最も非人間的な技術と行動と意思が支配するもの、それが戦争だ。
昨日のブログでも、『回天』の操縦操作が困難であることに触れた。しかし、『回天』とは戦局打開を祈る精神的兵器に近い。単なる機械にシンボル性を求める点で歪んだ祭祀性質が伺える。この精神主義が、引いては我が国まで核を選択しようとする未熟な汎神論を産み、いまもって我々の脳裏から離れてはゆかないのだ。
