穽
夏が去って、深夜の楽しみであったリオ五輪も終わった。
2020年の東京五輪まで約四年余りだ。
しかし、すでに回収不能の使途金が68億円なのだとか。廃案になった新競技場問題において各設計事務所、建設会社、ザハ氏など多額の資金を支払った末に、かの新競技場は徒労に終わったというのだ。
ふと、大西巨人という戦後作家を思い出した。その著作である『神聖喜劇』は、戦後社会を歩む前に一度は総括する必要があったはずの戦前社会に対するアンチテーゼだ。大学の文学部以外の人間であっても、日本社会の仕組みを文学を通じて俯瞰しようと思うならば、必ず読む方が良い作品である。
大西は作品において『日本の軍隊では、上官が命令を下すのを忘れていたために下級者が命令行為を実行せず、その責任を問われた場合に部下は『知りません』と答える事は許されず、『忘れました』と答えねばならない。それは規約ではなく、場の空気や不文律に近いと解釈し、軍隊組織と戦う主人公の絶望的な心象を描く。
国家主権と個人主権の相剋と思想を排除したと言うべきか。我々アジア民族には国家事業が目的化すると、哲学や理学が喪失するの傾向がある。それがアジアに根差す民族風土の特性限界なのかも知れない。
最近の築地問題や五輪、ひいては北朝鮮や尖閣問題も含めて、その騒動と結果にアジア的家族主義の穽、永遠に覚めぬ悪酔いのような印象がある。
いや…原爆投下を行った米国に哲学と理学が存在し得たのかは不明だ。だが、それでも理想は捨てていなかった耐性は有していたと思う。
そうでなければ、我々の戦後社会はさらに悲惨な結末であったと思うからだ。
さて…私は明日、『シン・ゴジラ』を見に行く。核による破滅という人類が産み出した最高の福音・黙示録…楽しみにしたい。
