演出家とは時代の絵解き説法
五月十二日午後・演出家蜷川幸雄氏死去。
今から数十年前、『蜷川・マクベス』を見た。マクベス夫人は栗原小巻、マクベスが津嘉山正種であったか…。
浮かび上がる三人の魔女…舞台袖には、これから展開する悲劇の目撃者、時間的空間を分かつ存在として老婆達が無言の芝居を始め、そして…『マクベス』が始まる。我々は老婆達と同じ視点に投げ込まれながら、同時に観客として舞台空間を共有する。この視覚に訴える舞台装置、動作と台詞の間を生かす演出。それは人々に多くの感銘を与える修辞であり、蜷川氏の手による古典作品の『絵解き曼陀羅』だったように思えた。
記録映像を見れば理解出来るが、灰皿を投げる蜷川氏の怒鳴り声は氏による演技も多分にある。そうすることで、相手の役者に言いたい事を伝えているのだろう。
そもそも、芝居や舞台の稽古など古今東西似たようなものだ。下手をやれば怒鳴られ、巧くやっても、また怒鳴られる。
演出家と役者の呼吸が合えば、その舞台は成功したと言えるだろう。
ただ、私は蜷川演出は『マクベス』が最初で最後だった。
派手な舞台装置と演出は映画的に見映えがするが、私が能楽の手法…いや能楽の演技的処方に浸りきったためであろう。
派手な構成の舞台は、一度見ると二回目への期待が薄かった。それはオリンピックのオープンセレモニーに似て、一度見れば満足してしまうに似ている。
役者の朗読のみで進行する芝居も辛いが、私は最小限の装置に人間の表現だけで進行する芝居、演劇が好きだ。
とは言え、一人の演劇者による作品の解体作業が幕を閉じた。それは戦後社会と共に生きた人々、思考の行間に句読点が打たれたように思えた。
様々な矛盾に対して怒りを放つこともない代わりに、事実を学ぶ態度も減って行くのだろうか。
