女は裸体で生きられる
街写真のスパイスに女性を点景に添える。女性を通じて時代性や未来を仮托する、と言えば『不倫は文化だ』に同類の屁理屈に近い。
要は『お前がスケベなだけだろ』…と言われても、箕も蓋もない。
街角の男が絵になりにくいと感じる理由はある。所属する社会性の影響下が強く、形骸化した鎧であっても身を覆うのが男性だとすれば、女性は常に裸体なのだ。実は、女性は何も無くても生きては行ける。社会性を必要とはしない。しかし、あえて情報を知識化(…蛇に教唆されたんだよ…)した意匠を纏う。それがファッションであり女性を記号化した姿だと思う。
そして、今は男女共に知識的女性化の時代だと私は見ている。
片や、日本人の父性哲学は七十年前の敗戦にテキストを喪失している。単に敗れたからではなく、父性哲学の矛盾も敗戦の一因であったと人々が気がついたからであろう。
しかしながら、知識的女性化より旧父性哲学の方が単純である。説明はしやすい。
簡単に言えば『弱者は消えろ。生まれてくるな。戦える男子だけが社会主権者』である。ゆえに戦前の教養主義とは『父性哲学』との戦いであり…戦前の日本文学の真髄はそこにあったのではないか。しかし、時代は変わりつつある。安部晋三首相などは、その父性哲学を再登場させようと躍起になっている。彼がマッチョで男性的な言葉を多用するのは、旧父性への憧憬が強いのであろう。
しかし、その憧憬の臨界点とは、おそらく彼の母親が見た父性であって、一人の女性が憧れた父性に近い、と推察する。それは安部晋三自身が身に付けた父性ではない。『父性』とは強さや逞しさ、揺るぎない決断力ばかりが強調されるが、『父性』には、もう一つ大切な要因がある。それが『ダメ親父』だ。『ダメ親父だけど、体一貫で懸命に生きる姿』も、また『父性』に不可欠なのだ。惜しむらくは、安部晋三には『ダメ親父』の要素が皆無である。彼は、自分の周辺から『ダメ親父臭』を消臭したのだろうか。強者を前に『自分の弱さ』を武器として用いる引き出し…政治家としてチャンネルが少ないのが惜しい。
私には『裸の女とダメ親父』が消えた社会はと、かなり息苦しいと思う。
