人も檻の中
幼い猫。はぐらかしたよう話題を避けている。この数日、呟きやブログに向かう気分ならず。どうにも避けて通れない今回の人質事件、茶化した話題で誤魔化しが効かないからだ。およそ駄ブログのネタにならない。気が重くなるばかりだ。
バカ真面目に討論するか、触れないか…それしか、私には思い付かないのだ。
それでも、この数日は少しだけ態度を改めてイスラム社会とイスラム教についての記述に目を通してみた。
しかし、ブログに書けるまでの積み上げに至らず。文化的に遠い世界であり、解釈が難しい。
私には、批判が集中している湯川氏が一旗揚げようとした気持ちは理解できる。いかに、彼が他人に『中二病』と揶揄されようと空想の産物であっても多少のシンパシーは感じるのだ。
願わくは『戦闘行為の作業』を普通の日常生活に見いだす事で、実際の戦争に参加せずとも『自分の戦場』に生きる道は模索出来なかったのか。
戦場を知る事は、実銃の射撃や銃弾飛び交う硝煙の涯に身を置くことばかりではないはずだ。
人には、特に若者達には長い人生の途上で幾多の『戦場』がある。とるに足らない仕事でも、そこに小さな戦いなのだ。平和な社会に生きる事も戦いに近い。
しかし、ここに負けると辛い…そういう負い目で生死を問う戦場で行ったのだろうが、輪をかけて役には立たないのは自明でもある。
実は戦場とは、茶の間や会社のオフィスからの遥かな延長上にあって、何ら変わらない価値観や生活感覚にある。違うのは日常行為に掃除や炊事をするように殺人が加わるだけだ。
私は、そういう生活の覚悟はしたくない。
今は、残念な事実だけが一つ横たわる。
