二大怪獣 | HOODのブログ

二大怪獣


抜糸は明日。

ひとまず予定外の夏休みも終わる。

自室に引きこもりテレビ三昧の日々、録画しておいたゴジラ、ガメラ、エバン…を見ていた。


怪獣映画が制作される世相には、その時代背景と重なる理由があるのだろうか。
今夏、二大怪獣映画を比較しながら得た感想がある。


唐突な結論から述べると、祝言祭祀性のガメラ、人間群像のゴジラ…という事だ。

ガメラは人と交わり、自然崇拝や拝火教に似た性質がある。
天照神に近い描きかたをされている。物理的に生物ではなく、神話における聖獣として扱われている。


一方、ゴジラは人間の存在を対峙し、物質文明を破壊する。人心と交わす事もない。スサノオ神に似た破壊を行動原理とするが、人間を否定する強いメッセージあればこそ、実は最も人間になりたい存在がゴジラでもある。

この暴論を飛躍して、能の作品群に置き換えてみる。能の祝言性や祭祀を考えるに、人々を救い国家体制を護持する役目は間違いなくガメラであり、神能に相当する主人公だ。
少女を介して意思を通じるというシャーマニズムは、古来から日本の文藝や民俗学に色濃いものだ。

対するゴジラは、人間の戦争による悲劇から発生した問われぬ人々の慟哭を背負っている。恨みや嘆きがゴジラに仮託されていて、ゆえに国家と暴力組織である軍隊を粉砕しようとする。
そこにゴジラが、能の修羅能や鵺、善知鳥など人(人であろうとする悲しみ)であるがゆえの矛盾と同様の主題を得ている、と私は見る。


実は、天災の多い我が国にとって怪獣とは、そのオマージュに他ならない。その記憶があるからこそ、畏れを描く象徴として怪獣作品があると思われる。

この畏れとは、声無き声でもある。
単純に『なんだ、怪獣映画か…』と一笑に伏して見ることなかれ。


写真は、先日に南洋の海岸に打ち上げられた『謎の生物』