アンチ・有らざる者
体調異常に悩み、鬱々とした毎日から楽しみが消えた。私の小さなオアシスだったAKB番組からは遠ざかるばかりで、まったくに興味を失っていた。
そうやって次第に鬱状態からアンチに傾きかけてゆく経験をした。
グループ楽曲には、『アンチ』という迷曲がある。
そこで…なぜアンチは生まれるのか。先日、病床で考えてみた
私が思うに、例えば、峯岸みなみが嫌いだから一人のヲタが峯岸アンチとなる…そんな単純な理由ではあるまい。むしろ、峯岸が好きすぎてヲタ同士の嫉妬、憎悪がアンチを産み出しているように見える。ヲタ同士で、峯岸みなみに求める価値観の相違差が大きいほどにアンチを産み出す。
残念ながら、我々峯岸推しは清純なアイドルというよりも『峯岸みなみの人生応援団』めいた集まりに変化しつつあるから、彼女に挫折があるとしても応援できる。いや、人生なんて挫折の連続ぢゃないか…『頑張れみぃちゃん!』となる。
それが良いことであるのかは別だが、相違感が少ないのは確かだろう。
しかし、非選抜、あるいは若いメンバーを推すファン、推し達同士には相違感が生まれやすいのではあるまいか。ヲタ同士の価値観から齟齬は近親憎悪にも似ている。それは、やがてアンチとなりヲタ同士が互いを揶揄して歪んだ快楽となるわけだ。
とくに非選抜のメンバーを応援するヲタの熱意、努力をメンバー自身が知らないわけはない…そういう思い込みがある。この思い込みの先に、アイドル育成という意味での命題、今後のグループの将来を左右する要因の一つになると私は思う。
私が応援していた峯岸みなみ、片山陽加、とくに片山陽加は悲しいくらい報いられることが少なかった。もうすぐ卒業だけど…いつの日か『私、劇場に出ていたんだよ…』と嬉々として語れるような人生に進んで欲しい。
逆に言えば、将来にも劇場が存続するのかが鍵なのだ。
さて、ここに至り一つの疑問が生じた。
強烈なアンチであっても、やはり劇場に足を運ぶのだろうか?
アンチでなくても当たるのが難しい現状なのだが、どうなのか…。
