作品と作家
能の大成者世阿弥は、自作の作品を著書の中で述べている。また、父親の観阿弥、実子元雅、他の役者が書いた作品についても言及している。
その上で世阿弥が改作、手を入れた作品は『これらの先行作品は、私が手を入れたもので、つまりは世阿弥の作品と言って良い…』と自ら証言している。まだ著作権など存在しない時代に、見事な先取精神と言って良い。
あるいは…私が高校時代に一番聞いていた大瀧詠一も、実はアメリカの東海岸で流行していたPOPを『トリビュート』した…と音楽通は揶揄する。
だが、大瀧詠一には松本隆という作詞家の存在があり、パステル画で描いたような世界観が確率していた。
つまり一人の作家で確率する作品世界よりも、複数で合作される作品が名作となる例でもある。
かの『北斗の拳』にせよ、原画原哲也と構成武論尊との合作だ。
『何故、沈黙は金とならなかったのか…。』
惜しい事だが、影として十八年間もゴーストライターとして活動していた音楽家と、その表舞台に立っていた男の関係が表面化した事実。
たぶん、あの二人において真実の理由が様々にあるのだろう。しかし、訪れる結果は一つしかない。
存在理由が破綻した音楽作品は哀れである。もはや、これらの作品は、人々に愛されなくなってゆくのではないか。
そこに作家として自らの作品を裏切った罪がある。人を騙すより、ある意味でさらに重い罪だ。
