居合いを見て。
小伝馬町・牢屋敷後。吉田松蔭刑死の場
昨夜、勝海舟著『氷川清話』に記述されている、土佐浪士岡田以蔵の下りを想像してみた。
なぜ、海舟は襲撃してきた浪士を撃退した以蔵を諌めたのか。
そこに海舟の哲学があるし、これまでに幾人かの人を斬ってしまった以蔵の悲しさと愚かさがある。
以蔵の卓越した剣の技術ならば、襲撃してきた侍を斬り捨てなくても相手を制止出来たはずだ。『もう、目前に迫る近代社会は人を斬る時代ぢゃあない…』それを勝は以蔵に教えたかった
。
おそらく、以蔵は相手が示した躊躇らいも無視して、一閃の斬撃を入れたのだろう。
勝は以蔵の将来を案じて『これからは、殺人は止せ…』と諌めたと思うが、以蔵は『斬り合いは理屈ぢゃない、』と反論した。
『あの場で私が斬らなかった、貴方は間違いなく死んでいた』…以蔵も、また正論なのだ。そして殺人を是とする屁理屈でもあった。
法に構成された社会に基づき、剣による解決を選ばない勝海舟、現場主義で技術だけが生き甲斐の岡田以蔵の差でもある。
ただ虚しいのは海舟へ襲撃を企てた三人の侍達だ。以蔵に斬殺された男は、名をあげることなく消えた。逃げた二人も同様だろう。以蔵に斬られたのは無駄な死であるのか。あるいは、意義があったのか。それすら問われない死だ。
当事者達による時代の読み違えは、大渦となって周囲の人々を飲み込んでしまうものだが、それを歴史と言うならば、仕方のない事なのか。
ひとつ正解があるとすれば、他人へ死を強要する社会は社会の姿をなしていない…という真実があると思う。
