肯定される相手
ふと…通常、舞台裏で役者達が使う部屋を『楽屋』と言う。
小さな小屋芝居から、果ては大劇場まで『楽屋』はある。
しかし、能楽堂の場合は『楽屋』とは言わず『幕屋』の名称で呼ぶ場合がある事を思い出した。
文字通り舞台橋掛かりには、鏡の間を仕切る幕が下がっている。ゆえに『幕屋』なのだ。
どことなく『楽屋』の通俗性を否定して、『幕屋』の言い換えで勿体付けているようにも思える。
特に能楽は、この勿体感…差のある重さを相手に知らしめたい、つまりは世阿弥の云う『増長』した感覚に支配されがちだ。
この辺りは上手に言わないと誤解を招く…そう認識したうえで、例えば米国のミュージカル俳優が見せる客へのアピール、あのしつこさ、客サービスを何と捉えるか。
客の位置付けが商業演劇と比較して特殊である…それが能観客の実態(かなりの客が演者のお弟子)、そこを加味して補正されて、客と役者の立ち位置がある。
その立ち位置の間に舞台があって、本当の目的であるはずの能演目が、師匠と弟子の狭間に落ち込んでしまったようにも思ったりする。
つまり、弟子が見る先生の舞う能『井筒』で終わってしまうのだ。そこは両者の関係以外の『読み込み』が、薄くなっていて内向きな感想しか言い出せない。
ましてや、お互いに相手がいて、その両者間が『肯定』を共有しないと、どちらか一方が『否定』を有すると極めて不幸でもある。
行動を言葉に表現しないのが日本的美意識であるならば、なおさら言葉には注意が必要でもある。
