表現にしがみつく
我々一般人が記しているブログは日記みたいなものだ。
だが、日記は誰かに見せるものではない。
では、ブログ化した日記とは何か。
考えてみると、かなりの矛盾がある。
他人へ公開する目的ではないのに、公にしているのだ。
これが芸能人などブログと日記が宣伝を兼ねた場合は、時に有効なアピールとなる。が…そういうことは我々には無縁だ。
作家名は失念したが、曰く『古今東西、日記とは、書き手は日記を誰がが開いて、いずれかに読むことを意識して書いているものた…』という説がある。
あらゆる文章とは、読み手が存在するものなのだろう。しかも、ブログは初めから読まれる事が前提にある。
ブログは書かれる話題は何でもよいのだ。そこに送り手のメッセージなり、意志が備わっていれば言葉の作用が生まれる。それは趣味や仕事、何でも良い。
しかし、ブログとは『王様の耳はロバの耳…』的なゴミ捨て場ではない。残念なのは、ダイレクトな校正や推敲が書き手しか存在しないため、時に自己完結した内容、あるいは自分だけがウケているネタで終始する場合がある。
それは『自己矛盾による言葉の躁鬱』だろう。
さて、このブログも二年半くらいは書いてきた。ブログが私の日記である以上、ひっそりと書き始めて、やがて人知れず終わる。
言葉を発していた意識が転じ、空気に近くなる。軽くなった魂だけが宙に舞う。その緩やかな終焉。
でもね…まだ、書きたい事が沢山あるから、このブログは続くよ。
推しの、あの子もいるしねぇ。
止められないや。
