あっかんべーっ、だ!
もちろん、撮影を開始した時に、すでにオートフォーカスの一眼レフはあった。
しかし、大きめなレリーズ音や巻き上げ音は静謐を要する舞台には不向きである。
さらに、照明の暗い能舞台でピントが合焦しないレンズとカメラの能力は、能を撮影するための機能として、本当は追いついていない道具だった。
自分でピントを合わせた方が確実であり、写真撮影とは撮影者の技術が勝る時代と考えられていた。
また、カメラメーカーによってレンズ描写に違いがある…と、宗教的まがいな解説まで付随して、雑誌などが様々なブームを起こしていたりした。
カメラ、レンズの会社ごとの差は、本当にあるのか。
大雑把な言い方になるが、それは能に置き換えたら、演出面で観世流と他の流派における差異を、一つの作品から探すに近い。
要するに、能を楽しむ観客にとっては、微少な差なのだ。
あるいはチームAとチームKって、どう違うの…?
私にとっては『みぃちゃん』がいるか…否か。私に於いては意味は大きいが…
(ΦωΦ)話が外れた。
結局、自分の環境に合った差を受け入れて道具としてカメラを使う…それが答えだと思う。
それだけの理由に一喜一憂したりする。
蛇足。写真表現として自分を論じると、あまりに自らが素人臭いというか、いっそ永遠の初心、青年で良い…と思う私には、まだ頂上は遥かに彼方だ。
